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水俣城
【みなまたじょう】


中世および近世初期の丘城。陣内城・陣の城ともいう。水俣市古城1丁目に所在。水俣市の中心近くの独立丘陵に立地。現在の城山公園の地。標高約30m。城主は水俣氏・上村頼孝・犬童頼安。城域は古城と高城の2区画に分かれ,古城が本城で,石垣や瓦の破片が出土し,南東隅には古井戸が残る。高城は南東に続く小山で,遺構は確認できていない。至徳2年2月4日の今川了俊書下(入来院氏文書/旧記雑録前編2)に「水俣城合力之由」とあるのが城名の初見。水俣氏については,篠原文書并系図(薩摩牛屎院蔵)によれば,建武4年の檜前(篠原)国尚の交名注文に「水俣弥十郎国友」とあり,篠原氏から分かれ,水俣を本拠とした水俣氏は葦北七浦に諸氏を分出したとみられる。しかし,南北朝期から葦北へ相良氏の進出の気配があり,長禄4年相良氏は水俣を支配下に入れ,室町期~戦国期を通じて相良氏の勢力は水俣に浸透していく(水俣深水文書/新編葦北沿革史)。大永4年相良長定は幼少の長祇を人吉から追い,長祇は水俣城裏山で自殺した。弘治3年上村頼興の死後,相良義陽の叔父上村頼孝らが反乱を起こした。頼孝は水俣城を与えられる条件で帰国したが,義陽の討手により殺害された。天正年間に入ると,境を接する島津義弘との対立が生じ,しばしば海陸から葦北郡へ攻撃が加えられた。天正9年島津勢は大軍で水俣城を囲んだ。この頃の水俣城の建物は茅葺で,竹の屋根に取り替えるため竹材を手配中に攻撃を受けたという(南藤蔓綿録)。相良義陽は,天正9年9月8日の起請文(竜造寺文書/県史料中世5)で,水俣の係争を竜造寺隆信に申し送っている。水俣城主犬童頼安は籠城したが,義陽は葦北郡を割譲して島津氏に降り,水俣城を撤収させた。「上井覚兼日記」天正9年10月26日条(古記録)によると,島津氏の地頭は古墻大炊大夫が任じられ,城主となったとみられる。天正15年5月25日の秀吉朱印状写(水俣深水文書/新編葦北沿革史)は,豊臣秀吉が深水長智に水俣城・津奈木城を託したことを記すが,彼は秀吉の葦北郡直轄領の代官および両城の城代として任命された。その後の城代は相良氏,寺沢氏と続き,慶長3年に寺沢氏領となり,翌4年小西氏領,同5年加藤氏領となったが,「事蹟通考」には「中村正師城代タリ,慶長十七年公命ニ依テ宇土矢部ト一同ニ破却ス」とあり,元和以前に廃城となった。なお昭和53年,市が公園付近に運動公園を造成した時,地下1mから長さ42mと15mの石垣が検出されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7227853