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妙解寺
【みょうげじ】


熊本市横手2丁目にあった寺。臨済宗系。山号は護国山。本尊は未詳。熊本藩主細川家の菩提寺であったが,現在は市立北岡自然公園として有料公開されている。寛永18年に細川忠利が死去し,藩主を継いだ光尚が父忠利追福のため建立にかかり,翌19年に完成した。光尚は江戸品川東海寺の住職沢庵宗彭を招請することを望んだが,沢庵は幕命で東海寺の寺務についており遠国への下向が許されず,寛永20年に同門の啓室宗栄を住職に下した。このため妙解寺では沢庵を開山とし,啓室を2世に数える。寺号は忠利の法名妙解院殿泰雲宗伍に基づく。寺領300名のほかに寄附米550石を受け,沢庵月忌料として米25石が与えられた。啓室は承応元年在寺のまま本山の京都大徳寺住持に任じられ,寛文9年妙解寺を天岸宗玄に譲り,塔頭臨流庵に隠居する。3世となった天岸は細川忠利の次男で光尚の弟,天岸も天和4年大徳寺住持となって上洛し,同年大徳寺の常楽院で入寂した。正徳元年には啓室と天岸にそれぞれ朝廷から真規良猷・慈徳慧済の禅師号を賜る。天岸以後の歴住は桂隠―謙叟―別道―大沢―法巌―真叟―孝庵と続いて明治に至る。歴代住職の墓はいずれも無縫塔で,裏山の北東部にある。藩主忠利の墓は寺の裏山にあり,忠利夫人千(小笠原兵部大輔秀政の娘で徳川秀忠養女)の墓はその右手,藩主光尚の墓は左手に並ぶ。いずれも五輪塔で廟屋がかかり,この3廟と廟所の門は県重文。門は東西軸をもつ四脚門で,前後の軒に唐破風をもつ。門の左右は格子塀で板目瓦屋根が載る。忠利廟が一番大きく,本廟は一辺5.73mの宝形造り,夫人廟と光尚廟は4m強の宝形で,すべて唐破風造りの向拝が付いている。この廟所敷地内には忠利死亡時の殉死者19名,光尚死亡時の殉死者12名の墓が並び,森鷗外の小説「阿部一族」で有名な阿部弥市右衛門通信(家禄1,500石)の墓もある。ほかに家禄1,000石の鉄砲頭寺本八左衛門直次から津崎五助のように6石2人扶持の者の墓も残る。3廟の背後には寛永19・20年奉納の石灯籠7基があり,痤鶴碑が1基混じる。文末に「寛文七丁未年三月十七日護国山下竺翁記焉」とあり,忠利の二十七回忌に建立されている。文字の磨耗が甚だしく文意が不明確であるが,碑の左脇の忠利百回忌の追刻文と併せて見ると,忠利愛養の鶴が放たれたあと妙解寺の庭にまいもどり,境内で死んだのでここに葬ったと読める。この廟所の外通路にも寛永18・19・20年銘の16基の石灯籠が並ぶ。忠利夫妻と光尚の廟所南側には門と格子塀で囲まれた廟域がある。門前両脇には正徳4年綱利に奉納した11基の石灯籠があり,綱利・宣紀・宗孝・重賢の4藩主の墓が並ぶ。綱利と宗孝のものは五輪塔で,昭和45年まで廟屋が覆っていた。宣紀と重賢の墓ははじめから濡墓で石玉垣を巡らす。この廟所の南側に瑶台院(細川治年室)と桂輪院(細川斉茲の次男)の墓が石玉垣に囲まれており,墓域の西端高所に治年と斉護の墓が唐破風の四脚門と格子塀に囲まれている。治年の墓にも重臣たちが奉納した10基の石灯籠がある。忠利夫妻と光尚の廟所の北に歴代藩主の子女の墓地がある。これら一連の墓所は細川家墓地として全域が県史跡。妙解寺寺域は墓所東の低地で,東側は旧井芹川で区切られていた。参道は,下馬天神で安国寺馬場と分かれて南に延び,正面井芹川に架る妙解寺橋を渡ると山門があり,正面に本堂・庫裏があった。山門の東内側に枯山水の庭園があり,山門を入って西に向かうと廟所への参道が続く。寺の外郭部は築地塀が巡らされ,南端に別郭を設けて経蔵が建てられていた。経蔵は周囲に堀を巡らし,井芹川からの水を引き込んで火難に備え,経蔵への橋も石橋で造られていた。経蔵西側の一段高い所には地主神が祀られていた。山門脇から廟所までの墓道両脇には34基の石灯籠が並び,奉納者名から寛永年間頃の細川家重臣層の構成がわかる。戦国期の肥筑の豪族の流れをくむ筑紫・小代・三池各氏や前主加藤家重臣新見・大木・加悦・庄林各氏などの名も見える。境内には4塔頭があり,臨流庵は庵名のように坪井川と井芹川の合流点の三角地帯を占めていた。大徳寺内玉林庵の末寺で,寺領20人扶持を与えられる。明暦2年に啓室和尚の開基で,隠居料として50人扶持を賜った。臨流庵2世大啓の元禄15年,綱利が修復を加え20人扶持と白銀30枚を与え,以来寺領が安定した(肥後国誌)。「雑華錦語集」に臨流庵八景として「南山暖靄 竹外斜橋 荷花香風 漁船烟掉 楓林夕陽 苔龕残灯 前村暮雪 蘆根宿鳥」をあげる。智照院は妙解寺末寺,現米50石を納める。寛文4年に啓室が開いた時は清陰庵と号していたが,延宝8年に没した忠利の三男修理尚房が当庵に葬られると,尚房の法名から智照院と改称。貞享5年から現米50石の寄附が始まった(肥後国誌)。同庵は経蔵の南西に所在し,尚房生母・尚房夫妻・尚房子女など8基の墓があった。宝光院も妙解寺末寺で,経蔵の南西にあった。延宝3年に忠利の次男天岸和尚が母宝光院の菩提追善のために建立した。向陽庵は「肥後国誌」に「光尚君妙解寺御建立ノ前ニ此庵ヲ構造シテ鏡首座ヲ在住タラシメ,仮ニ妙解院殿ノ霊牌ヲ安置シ,其節月俸三人扶持并三十俵寄附アリ」と記される。妙解寺とこれら4塔頭は,明治4年細川家が神葬祭式に変更したため廃寺となり,寺跡と3塔頭は細川家の北岡別邸(御内家)となり,臨流庵跡は北岡別邸の御用を勤める家臣らの住居とされた。寺跡の御内家は昭和20年7月の空襲で本邸が焼失したが,分散設置されていた御倉は焼け残り,御倉に収蔵されていた文書類の大半は熊本大学図書館に寄託され,美術品の相当部分も県立美術館・市立博物館に寄託された。一方,別邸敷地は昭和30年市が譲り受けて北岡自然公園として一般市民に開放し,旧寺地全域が市史跡に指定されている。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7227981