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湯町
【ゆのまち】


旧国名:肥後

(近世)江戸期~明治11年の町名。山鹿郡のうち。湯町村・山鹿湯町・山鹿町とも称した。熊本藩領。菊池川中流右岸に位置する。中世から菊池川沿岸の要衝として,上市城(山鹿城)を中心に町場化していたと考えられ,慶長9年の検地帳(県立図書館蔵文書)では,作人中に土器屋・鋳物師・小物屋など商工業者が見える(山鹿市史)。寛永15年五ケ町に次ぐ准町の1つとされ,小倉往還の地子が免除された。なお慶長9年検地の高1,148石余うち田678石余・畠470石余,反別120町余うち田56町1反余・畠63町9反余。「寛永郷帳」の高1,148石余,「正保郷帳」も同高でうち田678石余・畠470石余,「天保郷帳」1,160石余,「旧高旧領」1,219石余。なお「肥後国誌」では山鹿手永に属し,高1,163石余。また湯町のうちとして国瀬村が見える。江戸初期の湯町の中心は,現在の下町一帯であったと推測されるが,元禄2年の大火以降,火除地として広町ができ,同地へ菊池往還菊池小路の住民が移住させられ,温泉の湧出する湯之端を中心に宗方村・竹林寺村の各一部を含む町並みが形成されていった。広町のほか,「肥後国志草稿」には本町・上町・下町・鳥取町などの町筋が見える(山鹿市史)。また「鹿郡旧語伝記」(鹿本郡郷土研究資料1)によれば,もと市は3か所であったが,広町ができたことにより元禄4年から4か所となり,四日市・九日市・十四日市・十九日市の4市日に市が立ったという。また享保19年頃までには札座が置かれ,銀札を取り扱った。文政9年の山鹿手永高物成并惣軒数等書付(肥後国郷村明細帳2)によれば,竈数489うち町方403,人数2,807うち町人1,975,町名には関口・柳町・松坂・弁天町・堀明・玄小路・坂口・坂之下・広町・金屋小路・湯之本・花見坂・中町・宗友・下町があり,川船36,唐銅札4枚・商札7枚・質屋札7枚・造酒屋5軒・揚酒屋5軒・濁酒本手1軒・造酒本手受持6軒・糀本手15本・紺屋札45本などとある。寛永9年細川忠利が熊本入城を前に当地に宿泊して以来,御茶屋が置かれてきたが,明治3年温泉の大改築に際し町へ払い下げられ,翌4年大区小区制下の戸長役場にあてられた。明治3年の大改築は,井上甚十郎・江上津直をはじめとする横井小楠門下の人々が願い出たもので,翌4年11月に完成した。改築工事では,材木は寺島村法華寺の藩有林を,石材は志々岐の涅槃岩,八代(やつしろ)郡の白島石,山本郡の竹葉石を用いた。明治3~5年の温泉客数は,年平均8,000人(山鹿市史)。熊本県,白川県を経て,明治9年熊本県に所属。同10年の西南戦争では,植木学校の民権思想の影響を受け,前年に発生した戸長征伐の進展の過程で,わずかな期間ながら薩摩軍占領下民権党協同隊の指導で町民公選による自治が行われた。同11年山鹿町の一部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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