市村
【いちむら】

旧国名:豊後
(近世)江戸期~明治8年の村名。豊後国直入(なおいり)郡朽網(くたみ)郷のうち。岡藩領。久住(くじゆう)高原北東部,大船(たいせん)山南東麓の市川上流左岸に位置する。はじめ仏原(ほとけのはる)組千石庄屋,のち同組大庄屋に属した。大制札場があった。村高は「正保郷帳」564石余,うち田360石余・畑204石余,水損がち,「見稲簿」564石余,当村内として石田村が見える。「天保郷帳」は同高,「旧高旧領」292石余。なお,貞享2年の村高288石余,村位は上,庄屋は喜右衛門,安永7年の庄屋は善左衛門(農民一揆)。正徳元年の類族改では当村の類族男女各3(朽網郷切支丹類族帳)。当村には朽網郷最大の嵯峨大明神(嵯峨宮・宮処野(みやこの)神社)があり,同社の10月の祭礼は神宝会(神保会ともいう)とよばれ,氏子による獅子舞・白熊(はぐま)が奉納され,古代の嬥歌(かがい)の風習をも伝える祭として,別名「かたげ市」ともよばれてにぎわった。また同社は社領田1石余・畑8斗余を寄進される(地方温故集)。文化8年岡藩百姓一揆の際,当村周辺の農民は同社に集合したのち岡城下に向かった(百姓騒動見聞記)。寺院は明円寺。明治4年7月大分県に所属。同8年須崎(すさき)村ほか2か村とともに仏原村に合併。現在の直入郡久住町大字仏原のうち。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7228758 |