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飯田郷
【はんだのごう】


旧国名:豊後

(中世)鎌倉期~室町期に見える郷名。豊後国玖珠(くす)郡のうち。玖珠郡の南東部で,玖珠川の上流域一帯,本流を中心とし,支流野上川・町田川にはさまれた山地・原野に位置する。本流の水源は広大な飯田高原に発し,西は涌蓋(わいた)山(1,500m)・一目山(1,287m)・猟師(りようし)山(1,493m)を境として肥後国阿蘇郡(現小国町・南小国町)に接し,東部は久住(くじゆう)山(1,783m)・年治岳(1,643m)・野稲岳(1,038m)を境として直入郡直入郷(現久住町)・朽網(くたみ)郷(現直入町)・大分郡由布院(現湯布院町)に接する。現在の玖珠郡九重町のあたり。「豊後国風土記」に見える餅の的伝説の地,田野(たの)の千町無田があり,白鳥神社も北方(きたがた)に鎮座する。正元元年12月9日の将軍家政所下文に,「豊後国玖珠郡飯田郷内野上村住人 可令早清原金伽羅丸為地頭職事」とあるのが初見(諸家文書纂野上文書/大友史料2)。「弘安図田帳」によると,本荘・新荘に分かれ,前者は城興寺領,後者は一乗寺領であった(大友史料3)。郷内は次の名に分かれ,地頭がいた。飯田名(松行名)9町5段,美良津(みらつ)名(近松名)9町=狭間直重跡又四郎直親,恵良村(末藤名)16町3段小=肥前国御家人長与家経,檀村(犬丸名)7町=横尾成資跡,今城興寺,野上村(四郎丸名)11町6段大=野上資直・右田盛明,相(松)藤名6町5段=野上資直・右田盛明・松木言光,書曲(かいまげ)村10町=持明院別当入道室家跡,小田原頼宗買得を主張。うち野上村(四郎丸名)・松藤名は,豊後清原一族の野上氏・右田氏・松木氏等の本領であった。南北朝期には,飯田郷や山田・帆足・古後の諸郷の村々地頭職は田原貞広に与えられ(大友家文書録/大友史料7),さらに氏能・親貞と相伝された(入江文書/同前8)。観応元年6月九州探題一色道猷は,当郷内賀伊曲(書曲)村10町以下を,太宰府天満宮和歌所に寄進,文和3年12月には書曲村の替りに筑前穂波郡国次名の地を寄進した(大鳥居文書/大友文書7)。ただし野上氏らの領有は中世末期まで続いた(野上文書/大友史料27)。年未詳(室町期)5月9日の大聖院宗心知行預ケ状に,「玖珠郡飯田郷野上村之内右田名四町三段大并同名大和守跡・野上村之内犬丸名七町三段……」とあるのが終見(野上文書/県史料13)。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7232803