岩井川
【いわいがわ】

旧国名:日向
五ケ瀬川の上流域,九州山地の一部をなす峻険な山間地に位置する。五ケ瀬川は地内北端を西から東へと流れ,西端には狩底川,中央部に日諸峠に源を発する追川が流れ,ともに五ケ瀬川に注ぐ。西南部には高城山・百舌鳥山,東南端には真弓岳など1,000m級の山々が連なる。川はいずれも渓谷が深く,地内大人にやや平坦地があるほかは山が連なり,山間の中腹に数戸ずつの集落が点在する。地名の由来は,明治以前までは狩底川(秋元川)を岩井川といったことによるという。初見は天正18年の「竿前御改書上帳写」(矢津田文書)で,「一,高百六十石余 岩井河」とある。地内古園で磨製石斧,大人で縄文土器・打製石器・打製石斧・石鏃などが発見されている。中世には高千穂地方の豪族甲斐氏の本拠で,大人には甲斐氏一族の墓地があり,多数の五輪塔や宝篋印塔が残されている。なかでも近世初期に滅んだ岩井川・分城地域の領主甲斐長門入道宗摂の遺跡が多く,大人にはその居館跡「かこい」や馬場があり,その守護仏であった地蔵堂や中崎城址・小崎城址がある。宗摂は高千穂領主三田井氏の主席家老で,天正年間の島津・大友両氏の攻防戦では,はじめ三田井氏が大友氏方であったため大友氏に従うが,島津氏が日向を占有するに及んで島津軍に属し,高千穂勢を率いて肥後・豊後で功名をたて,豊臣秀吉の九州攻めで島津氏が降伏した結果,高千穂勢は本拠に引き揚げた。九州攻めの論功行賞で臼杵(うすき)郡は宮崎地方とともに高橋元種に与えられるが,三田井氏が臣従しないので,高橋氏は三田井家随一の実力者甲斐宗摂を脅迫して三田井家に背かせ,天正19年高千穂に進攻して三田井氏を滅ぼした。しかし,その4年後の文禄4年には高橋氏は宗摂に罪科を負わせ,兵を派して中崎城を攻め,敗走した宗摂は鶴の平で自裁した。宗摂は領民に善政を施したといい,領民はその自決地鶴の平に五輪塔を,居住地大人に供養塔を建て,八幡社に合祀して宗摂八幡と称したという。また,宗摂は芝居が好きであったと伝え,その命日には八幡社で村人が芝居を奉納する例となり,現在日之影町に伝わる大人歌舞伎芝居のはじめであると伝える。このほか大人には高さ170cmの自然石板碑に「文禄四乙未 捐館月清宗斉大禅定門神祇」と刻した碑があり,宗摂の墓には「文禄四年,捐館月□宗摂居士」とある。地内矢形の的には室町期の五輪塔が数基ある。大人には岩井川神社があり,もと太子大明神といい,国狭槌命・国常立命・豊斟渟命を合祀する。大人の地名については,神代に天孫瓊々杵尊が高千穂の久志布流岳から笠沙の岬に至る途中当地にしばらく止まったので大日止と称したのが,後年大人と記すようになったと伝える。岩井川神社には永正6年12月甲斐和泉守重久再建の棟札があるという。
【岩井川村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【岩井川村(近代)】 明治22年~昭和25年の西臼杵郡の自治体名。
【岩井川(近代)】 明治22年~現在の大字名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7234413 |




