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下北方
【しもきたかた】


旧国名:日向

大淀川下流左岸に位置する。地名の由来について,明治21年の郡役所の調査では「往古宮崎宮の祭日に勅使下向して下官の来たる所で下来方村と古書にあり」とあるが未詳。宮崎神宮の背後に当たる西北の丘陵地に神武天皇宮居の高千穂宮址と伝える皇宮屋(こぐや)がある。広さ約30町余,幅10町余の丘岡で,皇宮屋伝説地に鎮座する皇宮神社は宮崎神宮の元宮の跡といい,現在は神宮の摂社である。本庄街道から北へ参道が設けられ,丘上の樹陰のなかに社殿,境内に周囲丈余の「招霊木」の大樹が繁茂し,また苔むした古井があり,古来から神聖不可侵の井水としていた。古式神事に旧暦正月14日破魔矢の行事がある。皇宮屋の北西部に「景清廟」がある。「和漢三才図会」に「神武天皇,初皇居内裏跡,有宮。悪七兵衛景清之墓,水鑑景清大居士」とあり,伊東義祐の「飫肥紀行」に「其里人にこととえば,平家一門,景清の御墓も有と聞侭に,六字一遍手向して行けば,程なく大戸の渡りに至りぬ」とあって,景清墓所の伝承は古くから存していたことが知られる。「景清廟建立由来」などの伝説では,景清が建久6年に源頼朝に降ったとき,その武勇を惜しみ重用しようとしたが,景清が固辞したので,日向勾当として宮崎郡北方100町・南方100町・池内100町を領有せしめ,景清は文治2年に家臣の大野・黒岩・高妻らを従えて日向に下って,この地に居住したという。
下北方村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
下北方(近代)】 明治22年~昭和2年の大字名。
下北方町(近代)】 昭和2年~現在の宮崎市の町名。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7235165