都農
【つの】

旧国名:日向
都濃・津野とも書いた。都農川流域に位置し,尾鈴山塊の東斜面とその山麓から東に広がる洪積台地を擁し,東は日向灘に接する。地名の由来は,周防国都農郡・石見国都農郷と同じく,角朝臣の居所であったことによるという(地理志料)。古代以来,島津荘寄郡である新納(にいろ)院のうちの野別府(のびゆう)と呼ばれる地域であった。天正19年の「日向国五郡分帳」には「野別府 五十町」と見える。開発が進むにつれて,名貫川の北岸を川北,南岸を川南と呼ぶようになり,江戸期には名貫川北岸から心見川流域までの広い地域が川北郷とされた。現在の都農町域は,この川北郷の地域と重なる。都農神社は,「続日本後紀」「三代実録」「延喜式」神名帳などに記録されている神社で日向一宮である。縁起によれば,神武天皇が東征の際,宮崎の宮を進発して当地で国土安泰・海上平穏・武運長久を祈念して自ら鎮祭したことにはじまるという。「続日本後紀」承和4年8月朔日の条に官社に預ったことが記され,同10年9月19日条に無位から従五位下が授けられたとある。また「三代実録」の天安2年10月22日の条には従五位上の都農神に従四位上が授けられたと記される。「延喜式」神名帳には日向国児湯(こゆ)郡都農神社とあり,日向式内社4座の1つとされた。古くから疱瘡や田畑の害虫除けに霊験があるとして,崇められた。往古は日向国第一の大社として社殿は壮大で境内も広く栄えたが,天正年間の大友氏らによる兵乱のなかで宝物・古文書などは焼失し,また兵火を避けて尾鈴山中の都農崎に潜居することもあった。江戸期には高鍋藩主秋月氏の尊崇が篤く,元和3年秋月長門守種春が社殿を改築した。以後元禄5年・元文元年・安政6年にも改築。境内には明治2年に尾張の庭師に造らせた庭園があり,名園として知られる。明治4年国幣小社に列した。名貫川の上流は尾鈴山中で多くの滝をつくり,尾鈴瀑布群として国名勝となっている。また,地内川北の都農古墳,江戸期に高鍋藩の馬牧が行われた旧藩都農牧駒追込場跡は,ともに県史跡に指定され,当地に伝えられる高鍋神楽は県無形民俗文化財である。
【都濃郷(古代)】 平安期に見える郷名。
【津野(中世)】 戦国期に見える地名。
【都農町(近世)】 江戸期~明治22年の町名。
【都農村(近代)】 明治22年~大正9年の児湯郡の自治体名。
【都農町(近代)】 大正9年~現在の児湯郡の自治体名。
【都農(近代)】 明治22年~明治後期の都農村の大字名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7235483 |




