縄瀬
【なわぜ】

旧国名:日向
高崎川下流左岸地域から大淀川中流左岸地域の観音瀬(轟の瀬)に位置する。大淀川と高崎川の合流地は吐合と呼ばれている。山地や畑地が少なく,河岸地帯は広い水田地帯である。大淀川との関係が深く,川の瀬に漁猟の張縄を張る所が多いことから,縄瀬の地名が起こったという。縄文時代の石器出土地や弥生時代の住居跡がある。群集古墳は3か所にあり,高塚墳群集地(原村上),地下式墳群地(横尾・原村上)から遺物が多数出土した。小牧ほか大淀川沿いの数か所で,鎌倉期以降の生前供養塔が発見された。土地開拓者たちのものである。元亀2年の頃伊東義祐が築き,族将伊東加賀守に守らせたと伝える木場城砦跡が小牧にある。加賀守は翌3年飯野川の伊東・島津の合戦で戦死した。このあと両軍は高原・高崎・千原(木場城山麓)の合戦を続けた。天正15年豊臣軍の島津攻めで,観音瀬をせき止めて,都城島津軍を水攻めする計画を立てたが,実施されなかった。この時上原長門守は飫肥城主で,豊臣の軍使を斬った責任で城を明け渡し,旧支配地の高崎にきて遁世ののち20年に死去した。墓は小牧にある。慶長4年庄内の乱で,樋渡村の柳城主入来院軍と伊集院方の山之口城主倉野軍が,柳の関付近で激闘し,倉野軍が敗退した(三国名勝図会)。島津家久はこの後垂水島津家に,当地の五代・大久保馬場・越・宮ケ中の地を飛地領として与えた。「隅府温古集」には,鹿屋から郷士が縄瀬に移住したとある。越の地に30数名記の万治3年の庚申供養碑がある。
【縄瀬村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【縄瀬(近代)】 明治22年~現在の大字名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7235662 |




