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日南市
【にちなんし】


(近代)昭和25年~現在の自治体名。広渡川・酒谷川合流域の沖積地に位置し,北部は鵜戸山地,西部・南部は鰐塚山地に囲まれ,東部は日向灘に面する。飫肥町・吾田(あがた)町・東郷村・油津町が合併して成立。大字は油津町を除く合併各町村の16大字に油津を加えた17大字を編成。市制施行時は,面積98km(^2),8,353世帯・4万710人,初代市長は井戸川一,市役所は中央地点の旧吾田町に設置された。成立までの過程は,この南那珂郡域が早くから16か町村組合を結成して電気事業や鉄道誘致など広域圏発展へ向けての団結が強く,特に昭和13年に操作を開始した日本パルプ飫肥工場が進出してきたことは地域の経済基盤を大きく変容,近郊合わせて市制施行への要望を高めていった。第2次大戦後の同23年に近域5か町村(飫肥・油津・吾田・東郷・細田)の世論調査で賛成92%を得たのを皮切りに,日南(仮称)市制施行委員会が発足,市名について「吾平津市」「日向市」の主張などもあり紆余曲折はあったが,日南市に決定した。日向国の南部の意であるが,文明・明応の間2度にわたって飫肥安国寺の住持となった桂庵玄樹の「島隠唱」に「帙初日南安国之新居」などがあり,永正17年成立の「日下一木集」に「日南油浦之梅浜」と見えるなど,禅宗や文芸の分野では古くから当地方を日南と汎称していた。昭和25年度の総生産額20億8,970万円余,うち農産2億2,296万円余・養蚕20万円余・畜産401万円余・林産5,431万円余・水産1億414万円余・工産17億405万円余,同年の民有有租地のうち田1,485町4反・畑1,093町8反・宅地252町2反・池沼1町9反・山林1,423町9反・原野656町8反,総農家数3,094戸,うち専業農家1,262戸・兼業農家1,832戸,農用地総面積2,010町,うち田1,335町2反・畑480町3反・樹園地40町3反・その他154町2反(県統計年鑑)。同年4月には日南地方観光協会が生まれ風光明媚を誇る日南海岸を中心とする観光事業を促進し,同30年には宮崎市青島から鹿児島県志布志町に至る日南市東岸すべてが含まれる日南海岸国定公園(全長約140km)が実現した。昭和26年12月九州総合開発南九州特定地域に指定され,住宅・商業・工業・準工業・緑地帯を定め,油津地区を横浜に模した港街,吾田地区は東京の官庁街,飫肥地区は京都の住宅街という性格づけをした都市計画や飫肥~油津間の4車線,吾田~東郷間は11~15m幅の基幹道路の整備も進められた。同27年には市の海の玄関口にあたる油津港が重要港湾の指定をうけ,沖縄と結ぶ貨物航路の戦後第1船ちよだ丸4,000tが入港するなど活況を呈してきた。同年5月に隈谷(隈谷丙)の雑木林から室町初期の舎利塔約300基が発見され,市民に歴史の町としての存在感を強く印象づけた。同28年5月になると都井(現串間市,野生馬生息の観光岬)~油津間の道路が建設省産業開発青年隊の初事業として着工,同29年5月完成し,現在の大きな観光ルートに発展する基をつくった。同30年細田町・鵜戸村を合併し,2町8大字を加え2町25大字となる。この合併により油津貿易港の北・南に鵜戸と大堂津の両漁港を配することになり,市域面積はこれまでの2倍以上191km(^2)となり,世帯数1万2,000,人口は5万5,000人余に達し県内第4位の都市に躍進した。同31年には酒谷村と榎原村大窪を合併し,2大字を加え2町27大字となり,面積295.15km(^2),世帯数1万2,935・人口6万2,918となった。同35年の15歳以上就業者総数2万4,036のうち農業9,539・卸業および小売業3,369・製造業3,127など,農家総数4,982戸,うち専業農家1,522戸・兼業農家3,460戸,経営土地面積は田1万9,975a・畑9,238a・茶園136a・果樹園1,412a・桑園18a・山林150a,同36年の民有有租地のうち田2,202.6ha・畑1,630.6ha・宅地378.9ha・池沼2.2ha・山林5,179.2ha・原野665.6ha(県統計年鑑)。古くから弁甲材(飫肥杉)の取引きがあった沖縄が,戦後に緑の木々を再生のシンボルとして求めたときに真っ先に柳の苗木を贈った日南市民との縁で那覇市と同44年4月に姉妹都市の盟約が成立,木材・ミカンなど農林産物の市場開拓や親善使節団の訪問を通じて文化交流を行いその紐帯はますます強化されつつある。また油津地区天福球場を例年のキャンプ地とするプロ野球広島カープ球団の交わりから広島市との青果物取引きの話合いが具体化し,出荷と受入市場の建設を互いに進めつつある。日南地方は,かつては陸の孤島と呼ばれ海路交通に頼る地域であったが,昭和33年国道220号鵜戸トンネルの開通,同38年国鉄日南線の全通,同42年宮崎~日南間の国道の完全舗装などによって宮崎市との連絡交流が容易になり,市民の経済・文化面の発達に大きく寄与した。また県内陸部の中心地都城市と結ぶ道路完備が課題となって,同46年に都城市・三股町とともに牛の峠線道路建設促進協議会を結成して目下進行中である。同50年の民有地のうち田1,795ha・畑1,354ha・宅地582ha・山林6,858ha・牧場19ha,15歳以上就業者総数2万5,299のうち農業6,204,林業・狩猟業384,漁業・水産養殖業1,014,鉱業66,建設業1,889,製造業3,467,卸売業・小売業5,032,運輸通信業1,563,サービス業4,180,公務912,農家総数3,349戸,うち専業農家604戸・第1種兼業農家585戸・第2種兼業農家2,160戸,経営耕地面積は田12万6,839a・畑2万7,431a・樹園地6万6,310a,昭和48年度の市民所得は総額359億円余,うち第1次産業48億円余・第2次産業72億円余・第3次産業237億円余(県統計年鑑)。市内は旧町村別に8地区に大別されるが,そのうち主な地区について昭和55年頃の状況を記すと,まず旧飫肥町域については,市役所飫肥出張所が板敷に所在し,24区を管轄,昭和55年の世帯数2,750・人口8,407(男3,888・女4,519),面積42km(^2),人口密度200.2,卸小売業921人・サービス業777人・農業547人・公務136人など。農作地234haで,イネ・飼料用作物・野菜類を主に栽培している。また,旧東郷村域については市役所東郷出張所が東弁分乙に所在し,殿所・松永・甲東・乙東・益安・平山・風田の7地区を管轄,昭和55年の世帯数1,427・人口5,389(男2,543・女2,846),人口密度は224.5,サービス業436人・農業434人・製造業416人・公務51人など。農作地308haで,イネ・飼料用作物・野菜類が主産物である。旧吾田町域は当市を構成している城下町であった旧飫肥町,港町の旧油津町,農村・住宅地の旧東郷村の中間接点部に位置し,市役所をはじめとする諸行政官庁群や王子製紙日南工場・国鉄日南駅などがあり市の中枢地域である。同56年現在は川向・向原・釈迦尾ケ野・星倉住宅など24区にまたがっており,世帯数5,967・人口1万8,928(男8,993・女9,935),業種別は卸小売業2,091人・サービス業1,875人・製造業1,775人・建設業894人・農業613人など。農作地314ha,イネ・飼料用作物・野菜類・イモ類が主産物である。旧鵜戸村域は同年現在市役所鵜戸支所が宮浦に置かれ,大浦・小吹毛井・吹毛井・宮浦・小目井・富土・富土河内・伊比井・伊比井河内・鶯巣の10地区を管轄,世帯数613・人口1,810(男836・女974),面積66km(^2),人口密度27.3,卸小売業224人・サービス業200人・農業195人・建設業115人・漁水産業102人など,農作地33ha,イネ・マメ類・野菜類を主に栽培,鵜戸漁業の年間漁獲量15t・5,747万円余,磯建網漁法を中心としている。昭和9年殿所の中ノ尾供養碑が国史跡に,同26年東弁分の東郷のクス,同28年宮浦のヘゴ自生北限地帯が国天然記念物に指定された。昭和8年宮浦の鵜戸千畳敷奇岩,同10年吉野方の飫肥キンモクセイが県天然記念物に,昭和8年楠原(くすばる)の勝目氏庭園が県名勝,同12年風田の東郷古墳,下方の細田古墳が県史跡,同37年本町・今町の泰平踊りが県無形民俗文化財,同40年吉野方の大迫寺跡石塔群は県文化財にそれぞれ指定された。同45年板敷の振徳堂,隈谷の歓楽寺跡石塔群,鵜戸山の別当墓地,八丁坂,磨崖仏,紙開発祈願石灯籠一対,今町の長持寺の勅額は市文化財に,板敷の飫肥八幡神社のクス,鵜戸山の一本スギ,松永のシイは市天然記念物に指定された。当市の今後の展望は,昭和65年完成を目指して拡張工事を実施中の大油津港の構想,市の中央部に位置し「日パ」の名で市民に親しまれ,同54年合併して社名を変えた王子製紙日南工場の経営進運,昭和52年に文化庁から伝統的建造物群保存地区に選定されて着々と史跡復元が実現しつつある飫肥城下町とあわせて,サボテン公園・鵜戸神宮から日南海岸づたいに大堂津港に至る豊富な観光資源の活用などが地域発展の鍵をにぎるものといえる。昭和32年から同60年にかけて,戦災復興事業・土地区画整理・住居表示が行われ,28町が起立して28町25大字となり現在に至る。世帯数・人口は,昭和25年8,450・4万1,432,同35年1万3,898・6万1,974,同45年1万4,688・5万3,288,同55年1万6,625・5万2,949。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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