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諸塚村
【もろつかそん】


(近代)明治22年~現在の自治体名。はじめ西臼杵(にしうすき)郡,昭和24年からは東臼杵郡に所属。九州山地の一部をなす山岳地帯。北は諸塚山,東は真弓岳,西は黒岳が連なる。地内中央を柳原川・七ツ山川が南北に流れ,南端で耳川と合流する。柳原川・七ツ山川などは山の間隙を流れ,峡谷・深淵をなし平野はほとんどない。山腹のやや緩やかな傾斜地や谷あいに耕地や集落が点在している。家代(えしろ)・七ツ山の2か村が合併して成立。旧村名を継承した2大字を編成。村名は七ツ山川・柳原川の水源が諸塚山であり,両住民信仰の山であったことによるという。高千穂地方の神楽歌に「御幣立つ 諸羽の山に我行けば 太子のそこも御幣とどまる」とあり,諸羽の羽はあて字で,「日本書紀」神代上巻に麓山と書いて「ハヤマ」と読ませていることから,諸塚山は多くの麓をもつ山の意味であるという。また諸塚山は別名を大白山ともいい,その山上に大白大司(太子)大明神社があり,天神七代を祭神に祀ってあった。現在は麓に社を建て七ツ山神社(旧郷社)となっている。一方,山の北東,向山の側に,太子が窟という洞窟があり,神代の遺跡と伝えられている。諸塚・飯塚・花塚・桐ノ木塚・高塚などと呼ばれる円墳が十数基あり,諸塚の語源と思われる(諸塚太伯山調査録)。村役場ははじめ七ツ山のもと戸長役場あとに設置したが,明治40年家代塚原に移転した。その後昭和17年新塚原に移り,同27年には新庁舎が完成し再び移転した。明治24年の戸数566・人口4,194(男2,155・女2,039),厩566,寺院2,学校3(徴発物件一覧表)。同32年の「諸塚村是」によると,戸数606・人口4,362で,1戸平均7.2人とある。田74町9反余・畑235町2反余とあるが,特徴的なのは焼畑が6,384町5反余の多くを数え,農家1戸平均で,田畑は合わせて4反しかないのに,焼畑は10町5反余もあり,山林・原野合わせての2町7反よりはるかに多い。当時の農家は,焼畑作業に追われていたことがうかがえる。同44年の戸数655・人口5,022。世帯数・人口は,大正9年859・5,327,昭和10年1,106・7,058,同25年1,082・6,336,同35年1,568・8,048,同45年1,079・4,582,同55年975・3,470。大正7年の民有有租地のうち田97町9反余・熟畑321町7反・焼畑6,573町9反・宅地9万2,660坪・山林1,616町8反余・原野76町7反余,農業戸数588・人口2,741,自作地396町5反・小作地22町,総生産額69万6,010円,うち農産32万2,605円・畜産家禽1万3,523円・林産30万8,802円・鉱産0・工産4万8,330円(蚕糸類6,831円・酒類2万9,901円・醤油440円・生産雑類1万466円・織物692円)・水産2,750円,学校数は尋常小学校2・尋常高等小学校2・分教場2,児童数761,教員数20,寺院は家代に曹洞宗金鶏寺,七ツ山に真宗本願寺派浄覚寺がある(西臼杵郡勢概覧)。昭和10年の総生産額60万6,481円,うち農産16万6,812円・蚕糸3,509円・畜産1万5,988円・林産35万7,786円・水産4,102円・工産5万5,791円・鉱産2,493円,民有有租地のうち田109町6反・畑6,547町8反・宅地32町7反・山林1,627町5反・原野79町1反,耕地面積541町7反,うち田120町2反・畑421町5反(県統計書)。同25年度の総生産額4億5,293万円余,うち農産2,327万円余・養蚕20万円余・畜産351万円余・林産4,542万円余・水産5万円余・工産3億8,045万円余,同年の民有有租地のうち田112町3反・畑6,544町8反・宅地33町6反・山林1,633町1反・原野79町5反,総農家数636戸,うち専業農家398戸・兼業農家238戸,農用地総面積514町4反,うち田120町1反・畑187町4反・樹園地5町2反・その他201町7反(県統計年鑑)。同35年の15歳以上就業者総数3,184のうち農業1,788・林業狩猟業510・建設業241など,農家総数671戸,うち専業農家14戸・兼業農家657戸,経営土地面積は田1,286a・畑1,727a・茶園150a・果樹園24a・桑園3a・山林648a,同36年の民有有租地のうち田110.4ha・畑256.7ha・宅地33.3ha・山林6,611.8ha・原野117.4ha(県統計年鑑)。同50年の民有地のうち田107ha・畑118ha・宅地34ha・山林5,931ha・原野56ha,15歳以上就業者総数2,375のうち農業1,067,林業・狩猟業460,建設業177,製造業22,卸売業・小売業180,運輸通信業57,サービス業287,公務70,農家総数550戸,うち専業農家20戸・第1種兼業農家268戸・第2種兼業農家262戸,経営耕地面積は田1万748a・畑6,571a・樹園地2,595a,昭和48年度の村民所得は総額28億円余,うち第1次産業13億円余・第2次産業2億円余・第3次産業12億円余(県統計年鑑)。大正初年頃から外国産の優良種牛が導入されて畜牛の改良生産が行われ,昭和20年代の末頃から同30年代にかけては,優秀な産牛地となり,家代牛・諸塚牛の名声が高かった。昭和7年開通したいわゆる百万円道路といわれた日向~椎葉(しいば)間の道路(現国道327号)によって,当地の道路事情は急変し,日向~椎葉間の定期バスの営業が開始され,この幹線道路に連絡する地内各集落への道路開発が進み,昭和31年には,今まで渡し船であった小布所(こぶとこ)地区につり橋が完成し,同51年には永久橋に変わった。また昭和35年には,塚原林道が日諸峠まで完成し,初めて隣の日之影町に車の相互乗入れができるようになった。同年立岩線,七ツ山線に定期バスが開通した。同42年諸塚~五ケ瀬間の道路が開通,同46年には主要地方道五ケ瀬諸塚線となった。昭和21年藤井長治郎が村長となってから社会教育に力を入れ,住民の人づくりをモットーに村政を進め,第2次大戦直後まず青年教育の観点から同年初めて,男子20歳,女子18歳を対象に成年祭(のちの成人式)を行った。同24年から全国的に成人式が行われるようになるが,それより実に3年も前であった。同年国が社会教育法を定め,公民館の組織と建設を奨励したので,藤井は直ちに公民館の普及と運営に力を注ぎ,その年のうちに各区に公民館を設置した。村長退職後推されて県会議員を勤め,退任後は中央公民館長として,住民の人づくりに力を入れ,同38年には他町村に先がけて,研修目的の中央公民館を建設し,行政の外郭団体としても大いに力を尽くした。また昭和37年には「諸塚村史」を編纂した。同41年第20回の成人式に当たり,藤井の功績を多とし名誉村民に推戴した。同年当地は全国町村会から優良村として表彰され,同42年自治大臣の表彰を受け,同54年には全国町村会から2度目の表彰を受けた。村は名誉村民藤井長治郎の功績を永く伝えるため,同年中央公民館玄関脇に藤井の寿像をたてて頌徳の碑とした。当地は山村で平地のない不利な条件を克服するために,歴代の村長は山を生かす事に力を入れ,杉の造林,椎茸原木の生産を行い,昭和55年現在では村を支える主産物として,乾燥椎茸数量16万6,160kg,金額にして7億5,000万円に達している。生産者1戸平均100万円の実績をあげており,県第一の生産量を誇っている。同58年には九州ではまれな,杉の間伐材処理工場を設置した。当地方の各集落には古来からの神楽が伝えられ,多少の相違はあるが,八重の平・立岩・南川・戸下などに夜神楽がある。中でも箕踊りは当地独特の踊りで,その歌とともに貴重な民俗文化財である。臼太鼓踊りも古来立岩地方では神事の付属行事として踊られた。その他祝いの歌のシヨンガエーや子守歌などがあり,また椎茸音頭など新しい民謡もあるが,まだ世間に知られていない未公開の民俗文化財が多い。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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