加紫久利神社
【かしくりじんじゃ】

出水(いずみ)市下鯖淵字加紫久利山に鎮座。旧県社。式内薩摩国二社の1つ。「延喜式」神名帳に「出水郡一座(小)」とあるもの。加紫久利山は肥後と薩摩との国境にそびえる矢筈岳の南麓で,「神社撰集」所引の遺書と称する古文書に「日本最初三十三国と定り一国に大社一宛御立之由候後六十六国に相分の剋薩摩の為大社出水肥後堺加志久利山へ奉崇則彼山之名をかた取加志久利大明神と奉申由申伝候」とある山である。以前は今の矢筈岳を加紫久利山と呼んでいたのかもしれない。岳の頂上には箭筈神社があり,山麓の当社の神官が管理し,例祭も当社と同じ3月4日であるが,両者間の因縁について現在しかとした伝承はない。仁寿元年6月の文徳実録に「以薩摩国賀紫久利神領於宮社」とあって初めて宮社に列し,貞観2年3月と同7年5月および同8年4月と順次正五位上まで累進している。祭神は天照皇大神を主神に宇佐三女神・三筒神・応神天皇を配祀するが,「特選神名牒」は「今按鹿児島県神名牒に祭神天照大御神とあれど如何あらん正しき証なし猶よく考べし」といって疑問を投げかけている。「式内社調査報告」はこれを受けて,当社祭神について詳細な考証を試みている。その要旨は1,本社は大宝2年薩摩建国と同時に肥薩国境にそびえる加志久利山麓に宇佐の3女神を移祭したものである。2,それは大宝2年の隼人征討軍に参加した豊前上三毛郡加自久也里出身地と推定される加志君和多利が,その出身地の大富神社の祭神を奉祀したものである。3,征隼軍に従軍して功績のあった加志君は,戦後肥薩国境守備を命ぜられてここに屯住し,郷里加自久也里の地名にちなんでこの地を加自久里と呼んだ。当時豊前加自久也里は郷里制の改正で炊江郷となるが,薩摩加自久里も本家分家の関係から借家郷という訓の同じ郷名に替えて和名抄にその名をとどめることになった。4,弘仁14年,日本六十六国のうちの薩摩のための大社として加志久利神社が確定した。5,仁寿元年官社となり,貞観2年従五位上,同7年正五位下,同8年正五位上と累進した。最後に「式内社調査報告」は,征隼軍に参加して功績のあった加志君和多利は,その後の度重なる軍功によって勲七等を帯するに至り,大隅国姶(あいら)郡少領に抜擢せられ,「続日本紀」天平元年7月22日の叙位記事に名をとどめたものとみている。以上薩摩建国にゆかりをもつ当社も,律令末期には神威も衰退したものと見え,建久8年の薩摩国図田帳には当社の記録はない。しかし,社伝では島津初代忠久は本社に60石を召し付けたとあり,17代義弘は神領30石を加増,21代吉貴は当社を薩州の総社と唱えるよう仰出して社殿の造営に当たり,別当寺・総持院幸善寺を興して出水(いずみ)郡内六ケ寺を管せしめ,22代継豊の頃は総領167石に及んだといわれる。明治6年県社に列した。明治10年の西南役で兵火にかかり社殿・社宝などことごとく焼失した。その後旧規にのっとり復興したが,昭和37年社殿の改築を行い現在に至る。本殿流造り方2間,拝殿入母屋造り間口3間・奥行2間半。境内地1万872坪。例祭日は3月4日で種子蒔祭が行われ,近郊隣県からの参詣客でにぎわう。氏子数1,250世帯,宮司の家系は安曇氏で,日向一宮の社家から島津義弘のとき召し移されたものであるが,今は別系の伊東祐彰が同地の菅原神社と宮司を兼務している。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7237018 |