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石垣島
【いしがきじま】


沖縄本島の南西,那覇(なは)港から海路約439kmに位置する島。八重山諸島の主島。方言ではイシャナギシマ・イシャナギラシマと称する。面積221.09km(^2)・周囲139.22kmで,面積は沖縄本島・西表(いりおもて)島に次ぐ。宮古島へ約90km,台湾の台北市へ約200kmの位置にある。最暖月(7月)平均気温28.5℃,最寒月(1月)平均気温18.0℃,年平均気温23.4℃,年降水量2,175mmで,年間を通じて温暖な亜熱帯海洋性気候である。海岸線は岩石海岸・砂浜海岸が複雑に入り組んで変化に富む。島軸は北東から南西にのび,その長さは約34kmで,島の形は柄を北東に向けた柄杓状である。柄に当たる北東部は,幅約300mのフナクヤー(船越)の地峡を挟んでのびる長さ約12kmの平久保半島である。南西部の島の主体部はほぼ方形で,北西部に川平石(かびらいし)崎や屋良部半島が突出している。主体部の中央に県の最高峰於茂登(おもと)岳(525.8m)がそびえ,その西方にはヤマバレー(山原岳,433.4m)・ウフダキ(大嵩,402.8m)・ぶざま岳(321.6m)が連なる。東から北東方には桴海於茂登(ふかいおもと)岳(477.4m)・ホウラ岳(342.0m)・野底岳(282.4m)・大野岳(215.3m)・金武(きんぶ)岳(201.3m)・大浦岳(192.5m)などが連なり,島の脊梁山地の於茂登山系を形成する。そのため島の南側と北側を結ぶ縦断道路は発達していなかった。数少ない縦断道路の1つに,東海岸の伊野田集落から北海岸の大田集落に通じる浦底越地がある。分水嶺付近にナナンガーラ(7つの川の意)があり,かつて若い男女が7つの川を渡ってしのびあったという伝説がある。現在,昭和59年から於茂登山系を縦断して宮良のミヤラカンシタ原と桴海の富野集落とを結ぶトンネルの開削工事が進められている。トンネルは長さ1,174m,総工費29億円で昭和62年完成の予定。完成すれば,現在大浜から宮良まで開通している県道大浜富野線がこのトンネルを通過して全線開通し,初めて縦断道路ができることになる。島を一周する道路は,市役所のある美崎町を起点に国道390号が東海岸沿いに北上し,西海岸沿いに北上して川平で東行する主要地方道石垣港伊原間線を平久保半島基部の伊原間(いばるま)で合わせる。両道を合わせて石垣島一周道路とも称する。平久保半島には北端の平野集落と伊原間を結ぶ県道平野伊原間線が通じる。於茂登山系はツルアダン・ヤエヤマシキミ・タイワンオガタマノキ・スダシイ・タブ・ヘゴなどの暖帯林に覆われ,於茂登岳や桴海於茂登岳などの標高400m以上の風衝地にはリュウキュウチクが群生する。南部には広大な台地が広がり,丘陵や海岸段丘も広大で,水稲・サトウキビ・パイナップル・野菜などの栽培が行われ,石垣島最大の農業地域となっている。南西部には多良間嶺(232.7m)・番名岳(230.4m)や前勢岳(197.7m)の山塊があり,その南側の海岸低地に石垣四箇(登野城・大川・石垣・新川)の市街地が発達している。主体部北側には海岸段丘が見られるが,平坦地は比較的少ない。北東部の平久保半島は安良岳(366.0m)を最高峰とし,その北側に山当山(246.9m),南側に久宇良岳(254.8m),さらに明石集落の位置する地峡帯(フタナカと称す)を挟んで南側にトムル岳(226.8m)・はんな岳(238.9m)などが連なり,大部分が山岳地帯である。これらの山地は安良岳・山当山・久宇良岳を除いて樹林に乏しく,古くから牛の放牧場として利用されてきた。石垣島の中央山地は標高も高く,河谷が発達し,於茂登山系に源をもつ宮良川(13.28km)や名蔵川(8.04km)をはじめ,東部に轟川(4.89km)・通路(とおろ)川(3.6km)・大浦川(1.70km),北部に吹通川(2.2km)・荒川(1.65km),平久保半島に安良川(1.6km)などが流れる。地質は古生層から新生代第四紀層まで多岐にわたり複雑な構造を示している。北東部の平久保半島は主に古生代トムル層の緑色片岩や黒色片岩が分布し,中央部では流紋岩の貫入が見られる。北部山岳地帯はトムル層を基盤に,花崗岩や第三紀野底層の安山岩や緑色凝灰岩などの火成岩が分布し,中央部には名蔵礫層や宮良層石灰岩,南西部の名蔵湾岸では富崎層チャートが分布する。また,標高40m内外の海岸段丘上には琉球石灰岩が分布する。島の周囲を堡礁が取り巻き,海岸では裾礁や砂浜が形成される。西表島との間には堡礁が発達し,内側に石西礁湖と呼ばれる礁湖をつくる。このほか東海岸の石東礁湖や北海岸の川平から野底にかけての礁湖があり,海底に各種のサンゴが生育する世界的に有数な海域となっている。宮良川・名蔵川・通路川・吹通川などの河口にはマングローブ林が発達している。主体部の南側には古くから集落が形成され,石垣四箇をはじめ,平得(ひらえ)・真栄里(まえざと)・大浜・宮良・白保などがある。主体部の北部および平久保半島には第2次大戦後,沖縄本島や宮古諸島からの開拓移住で再建された集落が多く,吉原・米原・野底・伊原間・明石・久宇良・平野などがある。石垣島が最初に文献に現われたのは「続日本紀」で,それによると和銅7年12月「少初位下太朝臣遠建治等,率南嶋奄美,信覚及球美等嶋人五十二人,至自南嶋」と記され,信覚(しがき)は石垣島と考えられている。近世の「指南広義」は夷師加紀,「中山世譜」は伊世佳奇と記す。しかし,「中山伝信録」では「八重山 一名北木山 土名彝師加紀,又名爺馬」と記され,「いしがき」は八重山の別名だとしている。新井白石の「南島志」では石垣・西表の2島を総称して八重山といい,また八重山を石垣とも称し,石垣は信覚のことであるとする。また石垣島は周廻16里17町と記している。道光23年(1843)に来航したベルチャーは石垣島のことをイシカキ(Ishikaki)と表わしている(サマラン号の航海記)。方言名のイシャナギラとは石の多いところの意といわれ,狭義では石垣村を指すが,石垣四箇の古い呼び名でもある。これが島全体を指す呼称になっていったという説がある。また,石垣島では古くから放牧が行われ,牧場を瀬垣(しがき)あるいはシドゥガキと称したが,それが島名となり,「続日本紀」で「信覚」と記され,「いしがき」に転じたとの説もある。石垣島は八重山諸島における政治・経済・文化・交通の中心的役割を担ってきた。そのためアルジシマ(主島)・ウフイシャナギ(大石垣)とも呼称された。新城(あらぐすく)島の「二月じらば」は,2月朔日に八重山諸島の島々から優れた青年たちが選ばれて,主島の大石垣に集められ,造船に勤めたことおよび彼らの造った船の見事さを謡っている(ジラバ110/歌謡大成Ⅳ)。この呼称は石垣島以外の人々からだけでなく,「いやり節」では,他島に配流された男が生地の石垣島を「大いしやけ」「あるじ島」と謡っている(八重山島歌節寄4/歌謡大成Ⅳ)。地理的位置と変化に富む地形および気候的条件などから観光地としても発展している。土地利用状況は昭和58年現在では耕地35%・牧場14%・原野44%ほかとなっている。全島石垣市に属し,昭和59年10月現在の人口4万2,957。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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