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上儀保村
【うえぎぼむら】


旧国名:琉球

(近世)王府時代~明治13年の村名。首里西平等のうち。首里城の北を東西に走る虎瀬(とらず)山の西端から,安里川支流の真嘉比川中流域にかけて位置し,南に傾斜する。方言ではウィージーブという。ジーブは土砂の積もったところの意で,西の下儀保に対し,上儀保という。浦添(うらそえ)城と首里城を結ぶ古くからの街道は,上儀保村北端で2条に分かれ,真嘉比川に架かる上橋・下橋に至り,ともに首里城久慶門に通じていた。この2つの橋一帯はそれぞれ上橋口・下橋口と呼ばれる。下儀保村との境をなす儀保大道北端の石畳の坂道を古くは「ぎぼくびり」と呼び,「おもろさうし」にも見える。この道の北端に,国王の沖縄本島中・北部巡幸の帰りを迎える御待所がある。明治の中頃まで,この大道で旧暦6月に村の綱引きが催された。赤平村との境の道に面して,西来院がある(首里古地図)。この寺は,慶長14年島津の侵入時に和議申入れの役を果たした菊隠長老の功をねぎらい,万暦39年(1611)尚寧王が建立させた寺である(球陽附巻尚寧王23年条)。国頭・具志頭両御殿や,君子親方と呼ばれ慕われた名三司官与那原良矩ほか7名の三司官を出した名門与那原殿内がある。そのほか琉球処分当時の三司官浦添親方朝昭・富川親方盛奎,また処分に強く抵抗した亀川親方盛武なども上儀保村に住んでいた。高い石垣を巡らし,格式を誇示する赤瓦葺の四脚門のある上級士族の屋敷が並んでいた。19世紀初頭,西平等の平等学校虎舘が設けられた。「琉球一件帳」によれば平士の家は45(那覇市史資料1‐2)。明治12年沖縄県に所属。明治13年儀保村の一部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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