内金城村
【うちかなぐすくむら】

旧国名:琉球
(近世)王府時代~明治13年の村名。首里真和志平等(まわしのひら)のうち。方言ではウチカナグシクという。沖縄本島,首里城のある台地の南斜面に位置し,安里川上流(金城(きんじよう)川)に臨む。地名の金は美称辞で,金城は城に接する地域を意味し,さらに内をつけて西隣の金城に対し,城により近い内側の金城の意。首里築城とともに城下町として古くから発達し,斜面の等高線に沿って屋敷が連なる。全域が士庶の居住地であるが,城に接する辺りは主に脇地頭級の屋敷地。北西端一帯をシマシー(島添)と呼び,城下からそこへ下る坂道を島添坂と呼ぶ。北端の城壁下に腓(くんだ)城がある。成化6年(1470)第二尚氏初代の尚円王が起こした革命時に,先王尚徳の妃・幼世子およびその乳母を葬ったところと伝えられる(球陽尚徳王条附)。ほぼ中央にある崖を取り巻く樹林の中に内金城御嶽がある。神名金のイビで,地域の鎮守である。首里城の南の城壁下を東西に走る道は真玉小路と呼ばれ,16世紀初めに造成された真珠道の一部であるという説がある。西隣の金城との境を南北に走る坂が首里金城石畳道(県史跡・名勝)で,首里城と南部の間切を結ぶ要路であった。金城川には金城橋が架かる。順治年間(1644~61)村の東端に東照山大日寺が創建された。寺の開基頼慶は,密法と儒学を学び,来琉して久米村の東寿寺に住み説法・講道していたが,尚質王が呼び寄せて儒書を侍講させ,内金城村に居宅を与えて,この寺院を建立させた(球陽附巻尚質王条附)。順治17年村人によって内金城御嶽に拝殿が創建され,御嶽もフェーディン(拝殿)と呼ばれるようになった。金城橋はもと木橋であったが,康煕9年(1670)風雨で破壊され,同16年石橋に改造された(金城橋碑文)。しかし,嘉慶14年(1809)に洪水で破壊され,同年10月から翌年2月にかけて橋脚を少し南に移し,岩を基礎にして再び架橋し,橋の南側の広場に重修金城橋碑をたてたが,のち沖縄戦で破壊された。康煕25年大見武筑登之親雲上が薩摩で和紙の製法を学び,同33年紙漉主取になり(由来記),金城村との境界をなす坂の途中に宅地を与えられた(首里古地図)。「琉球一件帳」によれば平士の家81(那覇市史資料1‐2)。同治5年(1866)8月の大雨で村東方の崎山御嶽裏の土地や民家,南風原(はえばる)間切兼城(かねぐすく)村の髭川原の道路などが崩壊したが,公費で修復された(球陽尚泰王19年条)。明治12年沖縄県に所属。同13年金城村に編入。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7239930 |