運玉森
【うんたまむい】

沖縄本島中部の西原町桃原(とうばる)と南部の与那原(よなばる)町与那原の境界にある山。方言ではウンタマモー・ウンタマムイという。中頭(なかがみ)郡と島尻郡の郡界にも当たる。標高158.1m。島尻層群のシルト質泥岩層と砂岩層からなるため,緩斜面の長い山麓を形成している。周辺の町村では西原富士・与那原富士・南風原富士とも呼んでいる。全山森林に覆われていたが,第2次大戦前から樹木が少なくなり,特に大戦中に日米両軍の激戦で焼かれ,現在のようなススキに覆われた山になってしまった。第2次大戦中,米軍はこの山をコニカル・ヒル(Conical Hill)と呼び(日米最後の戦闘),また,大量の砲弾を使用した激戦が行われたことから100万ドルの山とも呼んだ。現在,西原町側は御嶽などに一部森林を残すのみで,ほかはすべて沖縄カントリークラブとなり,芝が植えられている。頂上付近にあるオンタマノ嶽は西原町安室(あむろ)の集落発祥の地とされる。「由来記」によればオンタマノ嶽は2か所にあり,西方は西原間切安室村の拝所,南方は大里間切大見武(おおみたけ)村(現与那原町与那原の一部)の拝所であるという。神名はスズノモリ御イベともスズノ御イベとも見える。なお,大見武村の一部はウンタマヤードイとも呼ばれていたといわれる。運玉森は,「おもろさうし」に見える「うふたま」に当たると思われ,巻13‐218,No.963に,運玉森のオワモリ神女が久米島の海をたたえたオモロがある。東尾根中腹には,聞得大君が葬られているといわれる三津武(みつん)嶽がある。この山は沖縄芝居に出る伝説の運玉義留が住んでいた場所として有名。義留は富裕な支配階級から盗んだ金品を貧者に分かち与えた義賊で,当時反体制的英雄の出現を望んだ民衆が創作した人物ともいうが,実在の人物とする人も多い。西原町の古老は,義留は桃原の出身で,運玉森の中腹には義留が追手に追われて死んだ小さな池も残っているという。周辺からの眺めもよく,頂上からは眼下に集落や町並み,海岸線や島々が見渡せ,風光明媚な地としても名高い。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7239983 |