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奥武島
【おうじま】


久米島の仲里村宇根の泊集落の東方約800mに内海を隔てて位置する島。東のオーハ島とともに字奥武を構成する。オーハ島を東奥武というのに対し,西奥武ともいう。面積0.63km(^2)・周囲4.44km。島全体の基盤は安山岩の岩塊からなり,北側は高さ10数mの絶壁をなすが,次第に南へ低くなり,安山岩の風化土を砂が覆う。特に東から南部海岸沿いには砂丘が発達し,南端の砂丘の汀線に沿った海中には県天然記念物の畳石がある。干潮時には久米島との間を徒渉できる。昔からセジ(霊力)高い島とされ,「あふ森よねの森かやうさのわかつかさすてつかさかなし」という神名の奥武御嶽がある(久米仲里旧記/沖縄久米島資料篇)。名護市の奥武島や慶良間(けらま)諸島の奥武島など,沖縄本島周辺に多くの奥武という島があるが,「おもろさうし」には当島だけが「あふ」「あお」として1首に見えている。巻11-53,No.608には,一かさすわかてたに(かさす若でだに) 御みしやく ぬきあけ(御み神酒を差しあげよ)又まもんわかてたに(真物若てだに)又あふのはまさきに(奥武の浜崎に)又あふのいふさきに(奥武のいふ崎に)又おとゝまちとよたる(弟松鳴響たる)又せさのおやおもい(長上のおやくもい)とある。按司と大やくもいを讃美したもので,「かさすわかてた」は久米島の悲劇の若い領主として有名な笠末若按司のことと思われる。「御みしやく」は米作儀礼に神に捧げる御酒のこと。奥武という名の島は,聖地または葬地であったと推定され,この島では不浄を忌み,死者は対岸に渡って葬るといわれる。宇根に伝承される「右同時(大雨乞之時)奥武の後黒まんに御たかへ言」に,この島の黒マンというところに宇根ノロ以下多数の神女たちが集まって行った雨乞儀礼の様子が謡われている(オタカベ5/歌謡大成Ⅰ)。明治初年までは無人島で,泊や謝名堂から海を渡って耕作が行われていた。好漁場に近く,糸満(いとまん)をはじめ各地の漁民がイカ漁などの季節に臨時の上陸地にしていた。明治12年の廃藩置県以後は定住者も増し,特に糸満からの移住者が多く,大正期には50~60戸にもなった。昭和15年に仲里小学校の分教場が置かれたが,高学年の児童は満潮時には小舟で,干潮時には竹馬で海を渡って通学した。第2次大戦後は転出する家が続出し,昭和56年の戸数4・人口11。同58年,対岸の泊との間に海中道路(一部架橋)が完成,交通が便利になった。今後は農地の開発と,海水浴場やキャンプ地としても発展が見込まれる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7240007