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嘉手苅
【かでかり】


旧国名:琉球

方言でもカデカリという。宮古島南西部に位置し,南西は入江湾に面する。「雍正旧記」に,昔この地方の主であった久場嘉按司の居城クバカ城は長さ31間,横25間,門は未の方に向かうとある(平良市史3)。今日,入江湾の奥には高さ約2mの石垣で囲まれた城跡がある。按司は剛力無双で,石垣島大浜村のニキヤモノがそのうわさを聞いて力比べに来たが,按司が周囲1尺の真竹を引き抜いたり,嘉手苅入江まこ川で3尺余のシャコガイを手に沐浴するのを見て驚き,逃げ帰ったという(宮古嶋記事/平良市史3)。その頃,沖縄本島の玉城が久場嘉按司と親しくなり,その娘普門好善と睦み合って男子1人をもうけたという。しかし玉城は,妻の好善に流浪人といわれて怒り,子供を連れて沖縄本島へ帰った。好善は浜で悲嘆にくれ,「わが身も島ももろともに亡し給え」と叫んだところ,津波が押し寄せて海辺の村々は消滅した。好善の死骸は野崎の西赤浜に上げられ,人々は川満村東方に葬ったと伝える(宮古嶋記事仕次/同前)。久場嘉按司は,現在の下地(しもじ)町東南部から上野村南部にかけての一帯を支配したといわれる。入江湾付近には,海外交易用の茶を干したというパチャ(葉茶)が崎,外国船を係留したという唐船瀬などの地名がある。「唐人渡来のあやく」の中に,国難を逃れてきた唐人が,嘉手苅村から妻を迎えたことが謡われている(雍正旧記/平良市史3)。普門好善の伝承は,現在上野村宮国のミガガマ御嶽の由来としても語られており,宮古島南部が交易の拠点として繁栄していたことをうかがわせる。
嘉手苅村(近世)】 王府時代~明治41年の村名。
嘉手苅(近代)】 明治41年~現在の字名。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7240200