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久米
【くめ】


旧国名:琉球

方言ではクニンダという。沖縄本島,久茂地川の右岸に位置する。古くは浮島だった那覇(なは)のほぼ中央部に当たった。この地は,漫湖から湾入する小港と呼ばれる内兼久近辺に居を定めた中国福建省から渡来した人々によって始まったといわれる。これらの人々は,洪武25年(1392)明の皇帝から賜ったといわれる三十六姓で,京都建仁寺月舟寿桂の幻雲文集の鶴翁字銘(1527年頃)に,「曰久米村,昔大唐人百余輩,来居此地而成村」とある(続群書類従13上)。しかし実際は,成化15年(1479)に渡来した朝鮮漂流民金非衣らが,唐人が商売にやって来て,そのまま住みつく者がいるといっているように(李朝実録成宗10年条),種々の形で洪武年間(1368~98)の初め頃から移住し,自然発生的に中国人の集落を形成していったと考えられる。この集落をクニンダ(久米村)と称するようになった時期は未詳だが,景泰元年(1450)頃の琉球国之図に九面里と記されており(海東諸国紀),その淵源は古いと思われる。万暦34年(1606)に来琉した冊封使夏子陽は,当地を営中といったが(使琉球録),住民は唐営と称し,のちに佳字をとって唐栄に改めた。そのほか,朱明府・枯米所などとも書かれた。住民は,対中国文書の作成,中国への使者・通事・貢船指南のほかに,舟大工・水夫など,沖縄の大貿易時代に多大の貢献をした。しかし,二世・三世の頃になると,その活動は鈍り,嘉靖年間(1522~66)末頃からは貿易も次等に衰微し,万暦年間(1573~1619)には久米村自体も寂れ,夏子陽をして廃墟のようだと慨嘆させた(使琉球録)。
久米村(近世)】 王府時代~明治29年の村名。
久米(近代)】 明治29年~大正3年の那覇区の字名。
久米町(近代)】 大正3年~昭和46年の町名。
久米(近代)】 昭和46年~現在の那覇市の町名。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7240502