湖城村
【こぐすくむら】

旧国名:琉球
(近世)王府時代~明治36年の村名。島尻方小禄(おろく)間切のうち。方言ではクグシクという。康煕12年(1673)小禄間切成立後,儀間村から分村した。儀間村の東半分に当たる。この時期は,すでにサツマイモが普及しており,人口の増加してきた頃である。那覇(なは)港の南岸,北は御物城・奥武山(おうのやま)に近く,南は筆架山で知られた小禄台地に限られている。儀間村とともに,垣花と呼ばれてきた地域にある。台地へ登る通称ガジャンビラの東側に,湖城村の殿がある。地名の「湖」は子のことで,城は殿を意味し,儀間村の分村であり,湖城は「子城」からきていると考えられる。脇地頭に,久米村の書家として有名な鄭元偉がいる。筆架山の中央部に上の棚と呼ばれるところがあり,土帝君が祀られている。「麻姓大宗家譜」によると,儀間村赤平で沖縄にサツマイモを広めた野国総官への報恩祭を催すとあるが(那覇市史資料1‐7),のちにはこの土帝君で行われていたようである。嘉慶5年(1800)に来琉した冊封副使李鼎元の「使琉球記」には,板屋3間で土地廠と呼ばれ,石が置かれているが神像はないとしている。万暦37年(1609)尚寧王とともに薩摩にのぼった儀間真常が,木綿種子を儀間村に持ち帰って以来,湖城村も木綿織が盛んになり,湖城ミツバと呼ばれて重要な産物となった。村の東にウティンダ(落平)があり(旧記),船舶の水取場であった。拝所に湖城ノ嶽・湖城ノ殿があり,儀間ノロの祭祀(由来記)。明治12年沖縄県,同29年島尻郡に所属。明治13年の戸数295・人口1,503うち男749・女754(県史20)。キンベーモー(君南風毛)の遥拝所と対岸の渡地(わたんじ)との間に,明治中期まで渡し舟が運行していた。明治33年の琉球新報によれば,渡船賃1人2厘,渡船者1日平均400~500人とあり,この地が島尻方面への交通の要衝であったことを示している。明治16年に明治橋が架けられたが橋脚が弱く,同33年高潮で破壊され,同36年住民の組合によって南・北両明治橋が架けられた。明治20年代には儀間村のスラ場辺りから落平にかけての海浜が埋め立てられ,潟と呼ばれた。同36年那覇区垣花の一部となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7240564 |