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首里城
【しゅりじょう】


那覇市首里当蔵町3丁目に所在する城。単にウグシク(御城)とも呼ぶ。国史跡。首里台地の南縁,標高約130mの丘陵上に立地し,規模は東西約400m・南北約270m,面積4万6,167m(^2)。琉球国王の居城であった。「おもろさうし」には,単に「しより」「首里」とあり美称として「かなふく」と見え,また単に「くすく」という場合にも,多くは首里城を指す。築城の時期については,14世紀の察度王代説と,15世紀初期の尚巴志王代説がある。最初に城として築かれた区画は京の内と呼ばれ,城の南壁に沿う高台部にある。京の内の東・西・北の3門はのちにアーチ門に改められ,往時の建物は残らない。城内には,京の内の御嶽と総称される大小5つの御嶽が設けられて聖域化され「おもろさうし」には「けおのうち」などと見える。京の内南壁の崖の上に中のアザナと呼ばれる物見台があった。察度王は,高ヨザウリという高楼を建てたと伝えるが(中山世鑑),これは京の内にあったとも考えられる。昭和11年京の内・西のアザナなどの発掘調査が行われ,多量の青磁・染付・南蛮陶器・古瓦が採集された。特に,西のアザナの南東の地点では「癸酉年高麗瓦匠造」「大天」の銘のある高麗系古瓦が出土した。尚巴志王代には,京の内の東側から北方にかけて,大きく京の内を取り巻くように城郭を広げ,南に美福門(赤田御門),西に瑞泉門(樋川御門),北に淑順門(御仲御門)の3門が設けられた。各門とも同一の構造で,城壁を一部中断して門をつくり,その上に桁を渡し,桁上に梁を並べて入母屋造りの楼屋をのせた門である。瑞泉門と美福門の前には数十段の石段があり,両門の左右には同形同大の石彫りの獅子像が置かれていた。城の築造当時の正門は美福門であったが,のちに瑞泉門に改めたと伝える。北の淑順門は,内院に通じる婦女専用の門である。「李朝実録」によれば,第一尚氏王統の時代には,すでに3層の殿閣が建ち,城の南門で漏刻していたという(瑞宗元年条・世祖8年条)。第二尚氏王統の尚真王代(1477~1526)には,北方に城郭を拡張し,瑞泉門外に新たに歓会門(あまへ御門)を設けて正門,北の城壁に久慶門(誇り御門)を設けて内院への門とし,久慶門から淑順門へ至る途中に右掖門(寄内御門)を設けた。嘉靖25年(1546),さらに城の東から南へかけて城郭を拡張し,美福門の外側に新たに継世門(添継御門・赤田御門ともいう)を設けた。この門の名は,国王薨去の際,世子がこの門から入り,美福門を経て正殿の後方にある世誇殿に入り,即位の礼を挙げたことに由来する。外城壁に設けられたこれら3つの大門は,いずれも同一構造で,石造アーチの上に単層入母屋造りの木造建築を重ねた楼門であった。歓会門には石彫り獅子像を置いて門前の威容を整え,久慶門には一対の樋を設けた。継世門には,琉文と漢文による城郭拡張と開門の由来を刻んだ「添継御門の南のひもん」と「添継御門之北之碑文」という一対の石碑がたてられた。西端の城壁にある木曳門は,城内に材木を搬入する時だけ開けられるアーチ門で,普段は石で塞がれ,門の所在は隠されていた。各門については,「おもろさうし」巻5-9,No.220に「ひがわぢやう(瑞泉門)」,巻5-10,No.221に「あかたぢやう(赤田門)」「すへのちやう(継世門)」,巻5-69,No.280に「あまゑのちやう(歓会門)」の造門が謡われている。瑞泉門・淑順門・美福門のうちが城の内郭に当たり,東から,まもの内・みもの内・メーヌウナ(前之御庭,大御庭・上之御庭ともいう)・下之御庭・京の内という区画と,高アザナ,島添アザナなどの区画に分かれる。正門である歓会門から瑞泉門をくぐると,漏刻門(かごゐせ御門)がある。漏刻門は楼上に水時計を設け,門東側の広場に日影台(日時計)を置いて時を刻み,定刻に太鼓をたたき,頭旗を掲げると,前之御庭の鐘,東西両アザナの時鐘がなり,同時に城外の寺院の鐘がなって四方へ時が伝わった。漏刻門をくぐると南に広福門(長御門)があり,この門と直結して東西に長い建物があった。東には戸籍などを司る大与座が置かれ,西には寺社宗廟の祭典などを司る寺社座が置かれた。広福門を南へ入ると下之御庭が広がる。下之御庭の西よりに諸臣の家譜作成や修史などを司る系図座と,進貢・慶賀などの礼服や貢物などを司る用物座があった。下之御庭の東に接して,1m余の高い段差のある前之御庭があった。前之御庭と下之御庭の境の石造基壇の上に,南北に長く奉神門(君誇門)がそびえ立っていた。嘉靖41年奉神門の基壇に石欄干を設けた(球陽尚元王7年条)。乾隆19年(1754)には奉神門を改修し,中国に習って1棟に3門を造り,中央の門を高くして,左右の門は低くし(球陽尚穆王3年条),中央の門は国王・冊封使の専用門とした。奉神門を入ると前之御庭が広がり,この庭の周辺は王城の主要部で,殿閣が群立していた。城のほぼ中央に位置する前之御庭を四方から取り巻くように,東側に正殿が西面してそびえ立ち,北側に北殿,南側に南殿が対峙した。前之御庭は,元旦と冬至に行われる京の御美拝という朝賀の式や,冊封式および冊封使歓待の七宴の1つである中秋の宴などが行われる広場である。正殿は,国殿・百浦添・華府・唐玻豊とも称し,約1.7mの石造基壇の上に建つ城内最大の建物である。丸柱・入母屋造り・重層屋根の3階建てで,屋根の棟の両端と正面の唐破風屋根の3か所に,大竜頭瓦の飾りをのせてある。殿の正面唐破風の向拝には,火炎宝珠を中心に,左右に雲竜の彫りを施した飾りがあり,梁間には牡丹唐草文に唐獅子を配したすかし彫りの飾りがある。向拝のある殿の突出部は柱・壁など全面に丹漆が塗られていた。正徳3年(1508)殿前の基壇に石欄と石竜柱が設けられた(球陽尚真王32年条)。殿の3階には中国皇帝の詔勅が収められていた。2階は大庫理と呼ばれ,中央にウササカ(宝座)が設けられ,重要な礼式を行った。階下は下庫理と呼ばれ,王府の諸規式を司る役所が置かれていた。殿の左右に廊があり,右廊は北殿に連結され,廊内には轎夫・酒庫理・螺赤頭などが詰めていた。北殿は,正徳年間(1506~21)の創建で,西御殿と呼ばれた(球陽尚真王43年条附)。冊封使を歓待する殿で,高さ約1mの石造基壇の上に建てられ,丸柱に床下の高さ1m余の入母屋造りで中国風平屋である。柱および外壁は赤茶色に塗られ,天井は白漆喰仕上げ。普段は評定所の議定の場などに使われ,議定殿とも呼ばれた。北殿の内部の床面は2段に分かれ,正面の突出したふきおろし屋根の部分の床面は低く,次の大広間は一段高くなっていた。大広間の正面奥には,さらに1段高く,冊封天使座が南面して設けられていた。北殿の西端に評定所の建物が軒続きに建ち,さらに2階建ての廊があって奉神門に連結していた。南殿は,天啓年間(1621~27)の創建で,薩摩在番の歓待や倭礼を行う殿である(球陽附巻尚豊王7年条附)。1m程の高さの石造基壇に北面して建てられ,入母屋造りの和風2階建て,72坪の殿である。南殿の西端に直結して,玄関に当たる入母屋造り平屋建ての御番所があった。南殿の南の高台に御書院があり,南殿の2階と廊下で連結されていた。御書院は国王が日常政務を執る殿で,諸臣と公式に謁見する殿でもある。御書院の西に世子・王子の応接などに使われる鎖之間があり,東に王府財政を司る御物奉行詰所があった。御書院・御物奉行詰所の2殿に挟まれた東南の広場は,枯山水の庭園になっていた。御物奉行詰所の東に,国王が政務の合間に休憩する奥書院があった。奥書院の東にカワルメノ御嶽を隔てて国王の居室二階殿があり,ウシメージウドゥン(御住居所御殿)と呼ばれた。カワルメノ御嶽から東方は,みもの内・まもの内と呼ばれる郭で,ウーチバラ(御内原)とも呼ばれ,大奥に当たるところである。二階殿の北西方,正殿の南壁に接して2階建ての建物があった。この建物の2階の部分は王妃の居室で,クガニウドゥン(金御殿)と呼ばれ,階下には左掖門という通路が造られていた。金御殿は廊下で正殿の2階と,二階殿とにつながれていた。金御殿階下の左掖門は,外壁および通路の両口の内壁を板張りして通路を暗くし,さらに通路内は2か所で直角に折れていることから,暗すみ御門とも呼ばれた。この門は,禁裏に攻めこんできた敵を,この暗い通路の中におびきよせて亡ぼす構えになっていたといわれる。金御殿の東には国王・王妃の食事をつくるユインチ(寄満)があり,「おもろさうし」に「よりみちへ」と見える。金御殿の南西は御近習御座で,金御殿・南殿・奥書院と連結していた。正殿の裏側の金御殿と連結する世添殿は,王夫人や阿護母志良礼の宮殿。正殿裏のクシヌウナ(後庭)を隔てて一段高くなったところに,国王即位の礼を行う世誇殿があった。世誇殿の北は,阿母志良礼座(女官居室)。世誇殿裏のさらに高い段差のあるところに,クガニグラ(金蔵)があった。金蔵の南にある緩やかな石段を東へ上り,白銀門をくぐると寝廟殿(王霊殿)があった。この廟域は,みもの内・まもの内で,最高の聖域とされていた。寝廟殿の後方の高台は,城の最高所で高アザナと呼ばれた。内郭東端の高アザナに対し,内郭の西端には島添アザナがあって,ともに時報の鐘が設置されていた。内郭と外郭の両城壁の間は,樹林に覆われたところが多く,建造物は久慶門内東側に銭蔵があり,継世門内東側に王妃関係の事務所である佐敷殿があり,西側には大台所・料理座があった。城内の用水は,瑞泉門近くに国王専用の竜樋があり,久慶門近くに城中用水のスンガーガー(寒水川樋)があった。城は,慶長14年の島津侵入後,順治17年(1660)に焼失し,国王は大美御殿に移った(球陽尚質王13年条)。康煕48年(1709)にも正殿・南殿・北殿が焼失した(球陽尚貞王41年条)。その後,道光26年(1846)には,城壁を含む大修築が行われた(球陽尚育王12年条)。明治12年の廃藩置県で首里城は明け渡され,熊本鎮台の分営が置かれた。明治42年首里区に移管。城中の建造物のうち,大正14年正殿が,昭和8年歓会門・瑞泉門(竜樋を含む)・白銀門が国宝に指定された。同20年沖縄戦で城は徹底的に破壊されて廃墟と化し,戦後,城跡はしばらく琉球大学のキャンパスとなっていた。現在城の復元工事が進められ,同59年現在,歓会門・久慶門および両門をつなぐ城壁が復元されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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