天界寺
【てんかいじ】

那覇(なは)市首里金城町1丁目にあった寺。臨済宗。山号は妙高山。本尊は釈迦如来。第一尚氏の尚泰久王が景泰年間(1450~56)に創建し渓隠安潜を開山とした(妙高山天界禅寺記/由来記,球陽尚泰久3年条附)。首里古地図では,首里城の西,守礼門の建つ綾門大道(あやじようおおみち)に面している。尚徳王は天順6年(1462)に使者を朝鮮に遣わし,天界寺のために大蔵経を請い,翌年金剛経ほかを賜った(李朝実録世祖7年条・8年条)。成化2年(1466)には大宝殿を建て,梵鐘を喜捨した(球陽尚徳王6年条)。この梵鐘は近世期には護国寺に掛けられ,現在は金武(きん)の観音寺にある。万暦4年(1576)火災により焼失したが,徐々に再興された(向姓大宗家譜/那覇市史資料1‐5,由来記)。天界寺には尚泰久王・尚徳王の神位が安置されていたが,万暦33年に廟となった(球陽尚円王条附・尚寧王17年条)。国王は即位以後,円覚寺・天王寺とともに天界寺に参ることを例とした(球陽尚貞王元年条)。国王は正月・7月に参詣し,12月には天界寺で年籠りが行われた(由来記)。乾隆21年(1756)来琉の冊封副使周煌は,「山門に石神(仁王像)二あり,仏殿の正中に当今皇帝の万歳竜牌を設け,及び旁は火神に供すること皆円覚の如くす。内殿に先王之父及び王妃,王女を祀る」と記す(琉球国志略)。住持は2年ごとの輪住で(県史12),末寺に安国寺・慈眼院・大悲院・普門院・慈照院・寿福庵があった(由来記)。役知高30石は康煕11年(1672)に決められ(球陽尚貞王4年条),近世期を通じて維持された。明治6年の「琉球藩雑記」には,公寺で境内地1,080余坪とある(県史14)。同12年の廃藩置県後は尚家の私寺となり,明治後期に建物は払い下げられ寺地のみ残った。跡地の東北隅に首里三平等の大あむしられの神殿を廃止統合して1つの神殿を建て,ミトゥンチ(三殿内)と呼んだ。西北隅には明治以後に没した旧王家の側室の神主を仮安置する前之御殿が建てられたが,いずれも第2次大戦で消滅した。戦後跡地は払い下げられ,いくつかに分割されて現在は住宅地となっている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7241082 |