宮良橋
【みやらばし】

石垣市宮良にある宮良川に架かる橋。国道390号が通過する。方言ではメーラバシィという。現在の橋は宮良川の河口から上流約500mにあり,長さ56m・幅5.5mのコンクリート製で,昭和40年琉球政府によって架けられた。古くから石垣島東海岸の要路で,最初の橋は順治15年(1658)に宮良親雲上長重が架けた木橋であった(山陽姓大宗家譜,八重山嶋由来記/竹原家文書)。その後,康煕43年(1704)銘可路親雲上が在番の時に石橋に普請されるが,乾隆36年(1771)の明和の大津波で流壊した。その後再建されず,渡舟を利用していたが,貢納物や物資の輸送,人馬の往来に不便をかこっていた(参遣状/喜舎場家文書,仲尾次政隆配流日記)。咸豊5年(1855)那覇士族仲尾次政隆(今帰仁(なきじん)間切中城(なかぐすく)地頭職)が,当時禁制となっていた浄土真宗を信仰し布教したと密告され,八重山に無期流刑となった。彼は宮良川に橋がなく島民が困っているのを見兼ね,首里王府の許可を受け,同10年2月私財を投じて架橋工事を始めた。一説には,彼の文武両道にわたる才能と財力を,そのまま八重山の地に埋もらせないために,仲尾次の架橋技術を知る王府自身が赦免策として,秘かに促したともいう。仲尾次が築いた橋は,石積みの大小7つの水門の上に木橋をのせたもので,長さ75尋,中央部の高さ1丈3寸,左右の高さ3尺,橋底の幅3間,上方幅2間,工事期間2か月余,人夫延べ2,174人,諸入料102石余であった。しかし完成2か月後の6月に台風のため一部破壊され,翌年7月には,水門4か所を増設して修復完成した。仲尾次が流罪中でありながら,これだけの財力を有していたのは,彼の次男・三男が,仲尾次船で那覇(なは)~八重山間,その他の離島との間を往来し,商売して得た利益を生活の基盤としていたことによるという。仲尾次の宮良橋架橋に対する八重山官民の感謝の念は,同治元年(1862)検見使者・在番・頭以下15名の連署による仲尾次赦免の嘆願書となって表わされ,御物奉行所に提出された。同3年11月には,彼の功績が認められ赦免された。翌年1月には,宮良橋落成と赦免の祝賀が催され,5月に11年ぶりに那覇へ帰郷した仲尾次は再び役人に登用され,親雲上の位まであがっている。大正年間に登野城(とのしろ)の大浜信烈が作詞作曲したという「宮良川節」の一節に「仲尾次主のお陰に 宮良大川や 宝橋かけて 見事でむぬ」とあり,彼の功績は今日まで歌い継がれている。その後,橋は老朽化し,昭和8年大浜村がコンクリート橋に改築した。同10年には,宮良橋架橋の歴史的偉業をたたえた頌徳碑が橋際に建立された。橋の上・下流付近は,国天然記念物のヒルギ林が生い茂り,景勝地になっている。また,下流方は台風時における小型漁船の避難場所でもある。橋の北方約1kmには,雍正2年(1724)につくられた八重山における最初の陶器八重山焼きの窯跡がある。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7241862 |