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倉内村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。北郡のうち。盛岡藩領。七戸通に属す。村高は,「正保郷村帳」9石余(畑のみ),「貞享高辻帳」12石余,「邦内郷村志」「天保郷帳」ともに27石余,「天保8年御蔵給所書上帳」も27石余(御蔵高20石余・給所高7石余),「安政高辻帳」22石余,「旧高旧領」27石余。「邦内郷村志」では,家数35,本村を除いた集落別内訳は中志7・芋ケ崎3,馬79。「本枝村付並位付」によれば,位付は下の下,家数27,集落別内訳は本村20・中志5・芋ケ崎2。幕末の北奥路程記によると,家数24,倉内川の高瀬の渡で七戸通と五戸通が区分され,村内の高札場より小川原湖を見るとことのほか広い沼であったという。寛永元年蟻渡野を牧場とし,当村の木村兵部が野守として7石5斗の免地を領した(木村家文書)。西部の林の中に倉内八幡神社がある。祭神は八幡大神・大帯姫命・比咩大神の3座を祀る。集落の北に泊村大乗寺末寺の蒼仲庵があったが度重なる火災のため古い記録はない。枝村の中志は,「国誌」に「本村より西北の方1里15丁,小川原湖北2丁,家数7軒あり,東平沼まで1里18丁,西甲地村支村中村界まで19丁,基村までは1里19丁」とあり,馬の放牧と沼での漁撈で生計を立てていた。中志の集落の南方に天保14年の堂宇再建の棟札がある。また,同じく枝村の芋ケ崎は,「国誌」に「本村より1里3丁,内沼の東北に臨み,山を背に住す,家数3軒,西中志まで1里1町」とある。明治2年七戸藩領。同4年七戸県,弘前県を経て,青森県に所属。明治初年の戸数46,村況は「水田少く農隙漁を以て産を資け,或北地に渡て傭作す」とある(国誌)。同11年上北郡に属す。明治11年頃の村の幅員は東西約2里半・南北約2里,税地は田26町余・畑53町余・宅地2町余・林9反余・秣場27町余など計110町余,戸数46・人口320(男170・女150),牛105・馬179,漁船10,学校1(生徒男47),物産は米30石余・稗70石余・大豆10石余・粟50石余・そば25石余・小豆2石余・馬鈴薯約35石・鰯干粕約120本・鰻約40貫目・鱥約3,000本・鱒約50本・鰈約6,300枚・ボラ約30本・白魚約2石・ツカ約1石・麻約20貫目など(上北郡村誌)。同12年の「共武政表」によれば,戸数38・人口274(男145・女129),牛91,馬191,学校1,物産は米・粟・大豆・小豆・麦・稗・鮭・鰯。同22年六ケ所村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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