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糠塚村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。三戸郡のうち。はじめ盛岡藩領,寛文5年からは八戸藩領。八戸廻に属す。近世初期は根城南部氏の知行地で,元和4年の南部利直知行宛行目録(南部家文書)に「糠塚」「板はし」とある。村高は,「元禄10年高帳」では八戸通村の枝村糠塚として206石余(田51石余・畑154石余),「旧高旧領」では糠塚村として192石余。なお,「正保郷村帳」「貞享高辻帳」「天保郷帳」には当村の名が見えないが,これは柏崎村・沼館村・沢里村とともに八戸村と総称していたことによるものであろう。北は八戸城下に隣接し,西端を登り街道が南北に走る。地内の北に小丘の長者山があり,そのふもとには寺院が集中ているが,八戸城下南方の防衛拠点としての役割を担っていたものとみられる。用水は長者山堤と板橋堤を利用。「八戸藩日記」によれば,寛文8年板橋山の山守が木を切り尽くしたとして処分を受け,また宝永5年には糠塚および板橋山で松虫が大発生し,虫祭が行われている。登り街道は八戸藩主の参勤交代の道筋ともなっていたことから,しばしば植林がなされ,延享元年2月枡杉から一ノ坂間の両側に漆1,000本,宝暦元年4月同100本,同3年4月大杉平と根城通に漆1,846本および一ノ坂に槻276本(八戸藩日記),同4年には大杉平に漆1,770本が植えられている(八戸藩史料)。宝暦6年の当村における行倒者は31人(八戸藩勘定所日記)。天保7年には大慈寺の住職が恤救方取扱を命じられ,裏門向かいに置かれた救助小屋に飢民を収容した(八戸藩史料)。火事は,延宝2年4月に4軒を焼失し,同年12月には3軒を失い3人が焼死(八戸藩日記)。長者山は寛文5年9月の「八戸藩日記」に「長者林」とあり,延宝7年御家中のキジ狩りが禁止された。同書元文4年7月には「長者山境聢と相知不申,糠塚村御百姓共境御立被成下度段御代官迄願出候付,古来之儀常泉院并糠塚村古人御尋之上常泉院より茂古来之儀以書付申上候」とも見え,境界が定められた。文政9年には長者山からの船材運搬で,糠塚・板橋の28軒だけでは負担できかねるとして,当村給所および石手洗村からの加勢を願い出ている(八戸藩勘定所日記)。天保4年長者山坂の石段工事が完成(八戸藩日記)。長者山の頂上には三社堂(現長者山新羅神社)があり,別当の常泉院は寛文7年領内修験の惣録となっており(常泉院文書),領内10か寺の1つともなっていた。なお,現在,八戸三社大祭の中日に長者山新羅神社の旧馬場で行われる加賀美流騎馬打毬は,県指定の無形民俗文化財。享保6年に法霊社(現龗神社)の神輿渡御が始まり,同12年以降は祭礼時に歌舞伎芝居の興行もかかるようになった(八戸藩史料)。明和4年からは商宮律【しやぎり】の練習所として天王堂の拝殿が充てられたといい(同前),文政10年には境内に馬場が新設されて,流鏑馬と騎馬打毬も実施されるようになった(八戸藩日記)。寺は,八戸藩主の菩提所で領内10か寺の筆頭とされる臨済宗月渓山南宗寺,元禄5年の建立という曹洞宗石田山光竜寺,元和4年の南部利直和行宛行目録(南部家文書)に「禅源院」とあり,当初根城にあったとされる領内10か寺の1つで内5か寺の臨済宗臥竜山禅源寺,延宝元年の建立と伝え糠部三十三観音の第9番札所とされる(奥州糠部順礼次第全)曹洞宗の福聚山大慈寺がある。また,江戸期には,延宝元年八戸藩初代藩主南部直房の母仙寿尼を荼毘に付した地に小庵を開いたのが始まりという仙寿寺もあったが,明治初年南宗寺に合併するとともに廃寺となった。南糠塚には糠塚不動堂があり,明和8年の造立と伝える(八戸藩史料)。なお,八戸城下の南西部に当たる荒町・新荒町・稲荷町・町組町・上組町・上徒士町・常番町はいずれも当村が割かれて成立したものとみられる。明治4年八戸県,弘前県を経て,青森県に所属。明治初年の「国誌」によれば,家数は本村106,支村の板橋18・平中8・鍛冶丁6・下屋敷5。地内の状況を「水田少く土地は下之下。畑に蕎麦を植,瓜柿また宜しと云」と記し,また平中は「八戸町常番町の裡に散居す」,鍛冶丁は「長者山の麓にして八戸町の鍛冶丁に継き,片側に住し,傭役して世を渉る者多し」,下屋敷は「八戸町の荒町の北裡にありて稲荷丁の西に続き,売市村の東,新荒町の西土手下より稲荷丁の南北の方,堤の鰭飛地にあり」と記される。明治12年の「共武政表」によれば,本村の戸数91・人口591(男292・女299),寺院5,学校1,牛7,馬85,板橋の戸数18・人口133(男66・女67),牛3,馬28,物産はともに麦・雑穀・蔬菜・麻糸・鳥類。同22年長者村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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