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浜ノ町(近世〜近代)


江戸期~昭和47年の町名明治初年~明治22年は弘前を冠称江戸期は弘前城下の1町町人地城郭の北西,岩木川左岸に城下の飛び地として位置する岩木川の船渡場から北西の鰺ケ沢【あじがさわ】街道(西浜街道)沿いにのび,周囲を藤代・石渡・外瀬【とのせ】の3か村に囲まれる町名の由来は,西浜へ通じる道筋に立地することにちなむと考えられる正保3年の津軽弘前城之絵図では町割りがなく,「船渡広サ四拾五間深サ五尺」を渡り「秋田領ヘ出ル本道」とのみ記している「慶安2年道筋帳」によれば,「岩木川枝川広さ四拾五間深さ弐尺三寸五分,歩渡,少之水増ニも船渡,弘前宿はつれに有」と見え,当町はまだ町割りされていない弘前藩主は参勤交代に際し,寛文5年から碇ケ関【いかりがせき】口を通って往復するようになったが,当初は紺屋町から当町を経て鰺ケ沢に至り,西海岸から秋田領へ出た寛文13年の弘前中惣屋敷絵図では,町内の北東側に屋敷割りがあり14軒の町屋がある延宝5年の弘前惣御絵図にも町割りが見え,南西側に御蔵屋敷があるこの蔵屋敷は石渡御蔵とよばれ(津軽年代考記),天和3年には柵が設けられている(国日記)元禄13年の町割帳に浜ノ町と町名が見える宝暦6年の紺屋町支配町屋鋪改大帳では御蔵町と見え,町屋が90軒あるが,御蔵町とは町内に蔵屋敷があることから呼ばれたものと思われる寛政12年の分間弘前大絵図では,町屋96軒,岩木川河岸に制札場があり,当町南西に青女子【あおなご】堰がある文化6年の町割帳では,町内は岩木川畔から順に御蔵町1~3丁目と記され,蔵屋敷の東に相模屋,西に西沢屋という商家がある同10年9月28日に高杉組・藤代組・木造新田・広須新田の百姓が亀甲門に強訴した,いわゆる民次郎一揆では,当町の相模屋久兵衛方が襲われたという(国日記)岩木川の橋は,「津軽年代考記」では石渡橋として天和元年の架橋としている元禄7年の津軽領道程之図にも橋が記入され,同15年の弘前惣御絵図では点線で示されているが,これは同13年の大水で流失した状況を示していると思われる(永禄日記)文化3年の新製弘前分間惣図には「此所渡シ場」とあるが,その後また架橋され,明治4年の士族在籍引越之際地図には「橋長八十五間,橋幅二間三尺,川原幅百二間」と見える明治初年の「国誌」によれば,戸数131,町域は「上は紺屋町渉場より町末まて長三丁五十五間四尺八寸,幅上は七間下は六間三尺」とあり,町の状況について「日雇の者多く住し大工,桶屋,鍛冶職の者あり」「三方田圃にて東南は岩木川なり」と記すまた橋については「長五十八間・幅八尺五寸,仮橋なり」とある明治22年弘前市に所属当町はかつての西浜街道に沿う道筋(現主要地方道弘前鰺ケ沢線)の町であり,商店が並び大工・桶屋・鍛冶屋などの職人が住んでいた町並みには近年まで「こみせ」(雁木)が残り,古い町の面影を残していた現在の富士見橋は昭和33年に永久橋として完成した昭和3年の賦課戸数94世帯数・人口は,同25年143・799,同30年148・833同47年一部が浜の町東1~2丁目,残部は浜の町西1~2丁目となる




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7252091