浜三沢(近世)

江戸期~明治22年の地名北郡のうちはじめ百石【ももいし】村の枝村,明治13年からは三沢村の枝村たんに三沢ともいう三沢台地の東端,三沢川下流に位置し,同川が台地を開析する平坦地に立地東方は太平洋を望む洪積台地上の岡三沢に対し,「浜の三沢」とか「浜三沢」と呼ばれた盛岡藩領五戸通に属す寛永年間は下田治太夫の知行地というすでに元和3年の郡郷村目録に百石村の枝村として三沢と見えるまた,寛永18年小比類巻助右衛門(掃部助)が野守として当地に居住したという藩営九牧のうち最大規模の牧場であった木崎野牧の中心地で,野守馬役が居住していた「邦内郷村志」では百石村の枝村三沢と見え家数20「本枝村付並位付」によれば,同様にして,位村は下の上,家数18浜では鰯の地引網をかけたマネの合図が上がると当地の人々が駆けつけて網引きをした幕末の「北奥路程記」には,岡三沢から浜三沢まで21町41間,道筋は岡三沢村から左の方角に138間進んだところで左右に畑堰が2つあり,それから松並木・雑木林を880間進むと左右とも畑となり,さらに278間進むと稲荷神社があり,浜三沢村に至るまた浜三沢村から百石村に至る道は1,301間あり,浜三沢村の家数は32軒で,「此村能所也,家居何れもよし,御野守の家,殊によし」と評されているまた「奥隅馬誌」には木崎は広大で村落をなすものは三沢一村(当村)で,家数28,野守・名子らが居住するとあるさらに出張の代官・馬別当は当村から炊具・味噌を持参して根井に止宿し,勢子・人夫は10里外から集められたとある享和元年伊能忠敬は松前への測量の途次に当地に止宿している(小比類巻家文書)明治2年七戸藩領同4年七戸県,弘前県を経て,青森県に所属同11年上北郡に属す明治初年の「国誌」では百石村の支村三沢と見え,本村の北2里27丁に位置し,家数49明治6年当村北方の北山に旧会津藩士50戸が移住して開拓にあたったが,明治中期頃から当村へ徐々に移住し,次第に人家が増えた明治7年12月本県30番目の郵便局が開設された同10年当地に聚成小学が開設され,生徒数は男17・女8,校舎は木造平屋30坪であったというなお「明治12年公学校表」では明治10年百石村支村三沢に三沢小学を開設,同12年の教員数は男2・女1,生徒数は男35・女8とある明治17年の戸数54・人口335(三沢市史)同22年三沢村三沢の通称地名となる

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7252096 |