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藤崎(中世)


 南北朝期から見える地名。田舎郡のうち。貞和3年5月日の曽我貞光申状案に「一,建武三年正月七日令発向津軽藤崎・平内城等,対御敵南部又次郎師行・同舎弟政長・成田六郎左衛門尉以下輩,致合戦之刻,貞光被疵〈左膝口被射之〉」と見え,建武3年正月7日曽我貞光は安藤家季とともに藤崎城と平内城(平内町)で南朝方の南部師行・同政長・成田泰次の軍と合戦し負傷した(遠野南部文書/岩手県中世文書上)。曽我貞光は当初南朝方として戦功を立てたが,所領問題で南朝方に不満をいだき,北朝方となって南部氏と対抗することになった。この時藤崎城は南朝方の手にあったことがわかる。藤崎は,前九年の役で敗れた安倍貞任の子高星丸が逃れて来て,後に自領とした地といわれ,代々安藤(安東)氏が本拠としたともいわれている(藤崎系図/続群7上)。しかも安東氏の嫡流家は十三湊へ,庶流家が藤崎に残ったともいわれるが,系図が錯綜して性格なことは不明である。その後,室町期に安東氏は南部氏により藤崎より追われたといわれ,その時期は応永25年・正長元年・文亀2年などの説がある。天文年間の津軽郡中名字に奥法【おきのり】郡藤崎郷のうちとして「鶉別所 唐糸前 俎淵 溝沼 長岡橋 埜范 溝城 塗辺地 滑生木沼 新堰 平地 欝食野 富内 二皐至 長谷沢 黄蘗平」の16の地名が記されている(津軽一統志/県史1)。また同書によれば,奥法郡は浪岡御所北畠(浪岡)具永の領地とあるので,当地は北畠氏の支配下に入っていたともみられる。なお「津軽一統志」によれば,大浦(津軽)為信は大浦為則の子五郎・六郎を藤崎城主としたが,この2人が水死し,天正13年に藤崎城を廃城にしたという(新編青森県叢書1)。なお,当地には北条時頼の廻国伝説が残り,鎌倉期に北条氏得宗領であった可能性が強い。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7252274