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蛇浦村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。北郡のうち。盛岡藩領。田名部【たなぶ】通に属す。正保4年南部領内惣絵図に「蛇ウタ」とのみ見える。天和2年の惣御代官所中高村付に当村名がみえるが,元禄12年の絵図に記載はない。延宝元年に田名部通の検地が実施されたとされるが委細不明(邦内貢賦記)。村高は,「邦内郷村志」38石余,うち畑8石余,「原始謾筆風土年表」寛政10年条および「旧高旧領」でも38石余。なお,「正保郷村帳」「貞享高辻帳」「天保郷帳」「安政高辻帳」には当村の名が見えず,「仮名付帳」には大畑村の枝村として記される。戸口は,享保6年27軒・397人,馬38疋,牛46疋(下北半島史),元文5年23軒・290人,馬29疋,牛12疋(菊池家記/県租税誌),安永9年38軒・211人,馬16疋,牛17疋(邦内郷村志),寛政10年18軒(原始謾筆風土年表),享和3年43軒(本枝村付並位付)。地内の折戸神社ははじめ折戸山にあり,のち村内の稲荷神社に遷されたとされる。「下北半島史」では元和3年の勧請とするが,「国誌」では不詳ながらも享保年間の勧請かとしている。旧村社。稲荷神社は「邦内郷村志」に稲荷社とあり,貞享3年の勧請。同書に弁才天堂も見え,「漁船為平安往古村中建之」とある。また,「国誌」に慈観軒が見えるが,これは曹洞宗の庵で,大畑大安寺末庵,慶安2年の草創という。当村は,海岸線まで山が迫る山村的漁村で,地先の海産物と松前への出稼ぎが生活基盤となっている。中浦に属し,享保6年に天当小廻船2艘・漁船8艘を有し,享保年間には塩釜1があり(下北半島史),安永9年には地船1艘・漁船6艘を持つ(邦内郷村志)。享和3年幕府から佐井が箱館渡航地に指定されたことにより,文化4年下風呂境滝から蛇浦の岩崎まで新道開削。これに伴い人足伝馬の徴発が頻繁となり,文化8年北通り村々による田名部町定役銭減免愁訴が行われ,当村肝入宇兵衛も訴状に連署している(風間浦村誌)。明治元年弘前藩取締,以後黒羽藩取締,九戸県,八戸県,三戸県,斗南【となみ】藩,斗南県,弘前県を経て,同4年青森県に所属。明治初年の戸数56・人数300(同前)。明治11年下北郡に属す。明治初年の「国誌」によれば,戸数56,村況については「町並に家居し小店あり」と記し,また易国間【いこくま】村と同様に田畑が少ないため漁業で生計をたて,北海道への出稼ぎによって生計を補っていたとある。明治以降も生活基盤に変化はなく,同8年北海道への出稼者数65人(大間町沿革史年表)。同15年に同村仲買人鈴木惣兵衛から青森県令に出された前年の物資輸出入調によれば,輸出にコンブ・フノリ・スルメ・乾アワビがあげられ,輸入は米・酒・塩・菓子などとなっており輸出超過。同16年の河西粛四郡長への内申によれば「海産に富み,村内一般に富裕なり」とあり,同19年の柴太一郎郡長への内申には漁労と出稼ぎをもって生計をなし,富者も貧者もないとしている。明治7年蛇浦小学開校。同13年の戸数58・人口342(下北半島史)。同22年風間浦村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7252313