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安俵郷(中世)


 室町期~戦国期に見える郷名。和賀郡のうち。鎌倉期のものと思われる和賀氏系図の嫡女の項に,「安平五」なる名が見える(鬼柳文書)。安俵五郎であろう。この安俵姓の人物が,安俵といかなる関係をもつのか明確にできないが,本馬・大野馬を管理していることがわかる。猿ケ石川対岸にある落合の熊野神社は,馬頭観音を祀り,馬に関りが深い。あるいは,この地が本馬・大野馬に関係があるのかもしれない。地名としては,延徳2年の丹内山神社権現堂の棟札に,「和賀之郡安俵之郷」とある(県金石志,棟札は亡失)。同じく天文2年・元亀2年の棟札にも見える(県金石志,天文2年のものは亡失)。永禄元年和賀領検地目録にも,「八百石 安俵村」と見える(小田島家記録)。中世における安俵は,丹内山神社の6枚の棟札から見れば,亡失した応永22年・延徳2年・天文2年の3枚の棟札に「安俵郷種内村」とあり,丹内山神社のある現在の谷内をも含まなければならなくなる。現存する2枚の棟札のうち,元亀2年のものには,「大日本国奥州和賀郡安俵内種内郷」とある。安俵には,現在の安俵を指す郷・村名としての安俵と,ほぼ現在の猿ケ石川流域を指す広義の安俵とがあったか。安俵は,中世を通じて和賀氏の支配下にあったが,稗貫氏初代為重の弟,藤次郎広直を始祖とする稗貫氏の一流も「安俵殿」と称されていたという(槻木稗貫系図など)。これは,猿ケ石川下流を支配していた稗貫氏であろう。和賀氏は前掲応永22年の権現堂棟札に初出し(県金石志),大旦那前信濃守平時義と別当物部中務源義実の名が見える。時義は安俵小原氏系図に見えるが,小原氏は源姓であるので小原氏ではない。別当源義実は,以後の権現堂棟札の別当が源姓小原氏を名のり,実名に「実」の字をもっていることより,小原氏であると推測できる。小原義実は,観応3年9月13日の和賀義光軍忠状に,代官「小原四郎右衛門尉義実」と見え,同一人物である可能性が強い。とすれば,平時義は和賀義光の子孫といえよう。したがって,棟札にある平姓の大旦那は和賀氏であり,別当はその被官小原氏である。戦国期に安俵玄蕃とあるのは,小原氏ではない。安俵氏は,棟札から見る限り,義光―時義―義清―重義―信義―義重と続き,ほぼ40年間隔で棟札が作られており,そのまま親子関係を示すとは言いきれないが,広義の安俵を支配していた和賀氏の庶流の系統と見てよいだろう。安俵氏(和賀氏)は,猿ケ石川流域にその被官を配し,種内には小原義実―清実―兼実―義実―親実の系統を配していたのであろう。安俵には,猿ケ石川右岸の河岸段丘にある安俵城のほか,小原四郎の居館と伝える釜糠館・押蕪館・星兜館がある(城郭大系2)。応永27年には,安俵玄蕃の弟式部が,遊行第15代尊恵上人の巡錫の時入信し,量阿弥陀仏教順と授号され,成沢寺を開いている(北上市史)。この寺の本尊厨子には天正8年の銘文があり,「弥阿弥陀仏」「下総守信家」「来阿弥陀仏」の名が見える(県金石志)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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