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大槌村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。閉伊郡のうち。盛岡藩領。大槌通に属す。村高は,「正保郷村帳」97石余(田9石余・畑87石余),「貞享高辻帳」121石余,「邦内郷村志」157石余,「天保郷帳」152石余,天保8年は152石余,うち蔵入高125石余・給所高6石余(御蔵給所惣高書上帳),「安政高辻帳」121石余,「大槌録」145石余,「旧高旧領」152石余。「仮名付帳」によれば,当村の枝村に安渡【あんど】村が見える。「邦内郷村志」では,家数302,馬223,向川原・安戸(渡)浜の2集落が見える。「本枝村付並位付」によれば,位付は下の上,家数310,集落別内訳は,本村139・安渡37・向川原49・鳶沢38・上京51。なお,大槌通の大槌代官所は隣村の小鎚村四日町にあり,同じく小鎚村にある八日町とともに大槌宿を形成していた。享和3年の交通資料である「南部太膳大夫領内陸奥国閉伊郡東海岸村々里数併人数家数漁船覚」や「仮名付帳」によれば,家数273・人数1,465,漁船は小与板船13・小天当船6・五大力船23,枝村の安渡村は家数37・人数196となっている。中世当地方の中心となった大槌城最後の城主大槌孫八郎は南部鼻曲鮭で商路を開いたが大型商船所有のため罪人として処刑された。大槌城は万治元年藩命により解体撤去された。旧大槌氏の所領は3,000石といわれたが,海岸・山地の収穫高は固定化していて,大槌代官所管轄下23か村の総高3,000石とあまり変化のない農業生産高を示している。固定化した生産性の低い地域にあって,農民は絶えず冷害と凶作に苦しめられた。しかし,江戸中期には水産業において飛躍的な発展をとげ,「大槌代官を勤めれば一財産残す」と言い伝えられた。寺社の多くも景気の良かった時期に建立され,僧侶も永住の地として大槌を選んだ。かつての城下町が地方行政・経済の中心として発展し,教育面でも私塾が開かれ,寺子屋教育が盛んであった。しかし水産業はもともと不安定であり,農業に厳しい環境にあるこの地方は貧困の時期の方が続いていたといえよう。これに加えて藩の過酷な課税は,水産業にも及び,鰯の大漁にも獲れば損をする仕組みとなっていった。この地方は海と山に挟まれ,災害に見舞われることが多かった。江戸期を通して,地震・津波・洪水の記録も多く,「大槌町史」から主なものをあげると,地震・津波19回,風水害16回を数える。地震・津波では元和2年・安永3年・寛政5年の記録が見え,また寛政5年には被害のため役銭が半額免除となっている。風水害では嘉永2年に大槌村溺死2,潰家3,潰納屋1,漁船流失3,7石1斗9升6合の水損と伝えられている。安永元年から天明7年までの16年間は毎年凶作・飢饉の連続で,これに加えて宝暦・天明年間の飢饉はおびただしい被害を与え,「大槌支配録」によれば,宝暦5年の飢饉では大槌通の餓死者1,094人・空家114軒,また天明3年の飢饉では餓死・病死あわせて1,458人(男819・女639),潰家183軒と伝えられている。地内には,癸卯飢渇亡者供養塔・無縁法界供養塔・供養南無阿弥陀仏・有無両縁・労万霊など餓死者を供養するための石碑が多い。他方,天明の飢饉では藩へ金4両を差し上げ,新しく給人となった百姓もあった(大槌町史)。また「大槌村記録」によれば,天保の飢饉に際し,村の有力者が飢民に対して粥を炊出し,1日1人当たり2合5勺ずつ与えたことが記されている。「上閉伊郡志」によれば,寛保3年江刺郡の正法寺(現水沢市)の隠居寂照軒が当地に来て,私塾を開いたのをはじめ,盛岡出身の川口平蔵の大賢学道,蛇口良之進の蛇口臨書堂などが開かれ,多くの郷民の教化に尽くしたことが知られている。寺社には浄土宗大念寺・日蓮宗蓮乗寺・曹洞宗江岸寺,二渡神社がある。当地の強訴・一揆の主なものは,「大槌町史」によれば,天保4年・弘化4年・嘉永5年に起こっている。天保4年には打ち続く凶作・不作のため米価が暴騰し,春には玄米1升80文・白米90文と通常の倍になり,さらに7月末の小鎚村四日町の市日には玄米120文・白米125文・粟120文と暴騰し,その上夏の赤魚・鰹漁が不漁となったため,8月23日,吉里吉里・赤浜・浪板・室ノ浜の大槌湾内各浦の漁師が安渡浜に集合し,大槌に乱入した。一揆は500~600名で,主な商家に押し入り,家屋・土蔵を破壊し金銭を奪っている。同時に,一揆側は米穀類が入らず,その上,高値で一統渇命となるから御助け願いたい,針鉄高値では一統迷惑であるから専売を止めて自由販売にされたいなど5か条にわたる請願書を出した。弘化4年の三閉伊一揆は,三閉伊通に8,437両(宮古通3,527両・大槌通3,480両・野田通1,430両)の新税・御用金を課したことから起こったもので,同年11月23日頃,この重税に反対する百姓が徒党を組み,野田通を発して宮古・山田と南下し,11月28日大槌通に入った。吉里吉里から山越えに当村に入った一揆は1万人以上と伝えられる。一揆勢は大槌代官らの説得も聞き入れず,やがて笛吹峠を越えて遠野通へと向かった。この弘化4年の遠野越訴後も藩は再び重税を課したため,嘉永6年再度野田通から一揆が起こり,5月下旬,600~700人の一揆が野田通を発し,宮古を経て大槌代官所管内へ押し入った。一揆は内陸の小国村・金沢村からと海岸部の船越村・吉里吉里村と誘い,当村に着いた頃には3,000人程の人数であった。また橋野村では一揆参加の通告を受けて,137人が当村に集結している(釜石市橋野町和田家文書)。なお,当村安渡の道又覚兵衛は,「其の節の惣勢,釜石まで四万人ばかりの由」と記しており,当地の酒屋や店は酒類や売物を強奪されたとある。6月4日,一揆の出発にあたって,一隊は小鎚村四日町はずれにあった諸荷物役銭取立役所や役銭取りの定宿作兵衛方を襲撃したが,これを役人が制止したため,一揆側は引き返し,代官所を取り囲んだ。その後,一揆は釜石から仙台領唐丹村に越えて行った。盛岡藩は請願事項を全面的に受け入れ,さらに藩の専横を極めた要人の更迭を決め,藩政改革を断行し,藩主利済は江戸に謹慎を命ぜられ,一揆は終局を迎えたのである。この一揆の大槌通の代表は栗林村命助・橋野村勧左衛門・小国村茂右衛門・同村与右衛門・同村小平・金沢村平左衛門・長沢村伊勢蔵であった。明治元年松本藩取締,以後江刺県,盛岡県を経て,同5年岩手県に所属。同12年南閉伊郡に属す。同年の村の幅員は,東西2里2町・南北25町,税地は田19町余・畑193町余・宅地8町余・切替畑15町余・荒地47町余など計283町余,戸数357・人口1,837(男922・女915),職業別戸数は農業76・工業41・商業7・雑業228,物産は馬・鮭・鯣・赤魚・米・鰹・小豆・大麦・小麦・楢子・桃子・梨子・蘿菔・炭・繭・生糸・味噌・醤油・濁酒など(管轄地誌)。同22年大槌町の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7253170