葛巻村(近世)

江戸期~明治22年の村名。九戸郡のうち。はじめ盛岡藩領,寛文5年からは八戸藩領。八戸藩成立時には久慈通長内村名主の管内にあったが,まもなく軽米【かるまい】通に属す。なお,当村と江刈村を合わせて葛巻通とも通称された。村高は,「正保郷村帳」404石余(田42石余・畑361石余),「貞享高辻帳」504石余,「天保郷帳」701石余,「旧高旧領」726石余。元禄10年の内高は951石余,うち田60石余・畑890石余(郷村御内所高帳)。「安政高辻帳」には村名は見えない。大部分は山林・原野で,八戸藩領の南西隅に位置する。野田街道の宿駅で葛巻町とも称し,奥州街道の沼宮内【ぬまくない】駅まで6里18町余(邦内貢賦記)。特産物に牛乳があり,慶安2年当村と江刈村で6筒を藩主に献上している(県史5)。寛文2年村民が伝馬・次飛脚の負担軽減を訴え,それぞれ3疋までとすることを認められている(八戸藩日記)。同11年伝馬・切支丹・二判・捨馬・忠孝・毒薬につき制札場が置かれている。農業以外の産業に漆・用材・金・紫根などがある。寛文10年漆攪奉行の派遣があり,また延宝9年蒲ケ沢金山の開発が許可されている(八戸藩勘定所日記)。紫根は在郷商人によって集荷され,天明元年には市三郎が江戸へ出荷している(同前)。酒造屋は,元禄8年に万平30石,寛延年間に十三郎ほか2名,宝暦5年に長太郎ほか5名がおり(同前),江戸後期には古酒屋・大黒屋・三井屋・江戸屋・増田屋・城内酒屋がいる。元禄14年に市三郎は質屋手形を交付され(同前),文化5年に重三郎が無尽を行っている(九戸地方史)。天保6年三浦藤兵衛は鎌の製造許可を得て,翌年大量に製造している(御用留書/三浦家文書)。文久2年に八戸(現青森県)の堺屋久四郎の無尽を構成した者の中に当村の10人の名が見える(九戸地方史)。宝暦飢饉での餓死者は蔵入地で59人,給地で40人(八戸藩勘定所日記)。安永9年の火災では71軒を焼失した(同前)。文政年間以後,鷲塚平八郎は地内鷹ノ巣で贋金を作り,数回にわたって逮捕された(破草履)。字鏡沢に曹洞宗天井山宝積寺があり,江刈村・葛巻村の檀那寺であったが,村民の間には隠し念仏も広まっていた。宝積寺に異形の六観音像がある。字内田子の八幡社は寛文2年勧請と伝える。明治4年八戸県,以後弘前県,青森県,盛岡県を経て,同5年岩手県に所属。同12年南九戸郡,同17年からは北九戸郡に所属。明治12年の村の幅員は東西約4里6町・南北3里34町,税地は田1町余・畑845町余・宅地51町余・切替畑4町余・荒地12町余の計915町余,戸数581・人口3,223(男1,665・女1,558),牛1,236,馬728,葛巻学校の生徒数49(すべて男),職業別戸数は農業537・工業18・商業23,物産は牛・馬・大豆・大麦・麻糸・炭など(管轄地誌)。明治12年設置の扱所は同17年戸長役場となる。ほかに官公署には字下町に福岡警察署葛巻分署がある。明治7年葛巻小学校,同10年吉ケ沢小学校,同11年小田小学校,同15年小屋瀬小学校が開校している。野田街道は県道3等久慈街道と改称され,字内田子の八幡社は村社となった。同22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7253597 |