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郡山城下(近世)


江戸期の城下町名紫波【しわ】郡のうち盛岡藩の支城の1つ北上川中流右岸に位置する天正19年南部信直が高水寺城を郡山城と改称し,同城に城代が置かれて当地は郡治の中心となった(城郭大系2)城代には,初代に中野康実が任じられたといわれ,ついで慶長・元和年間は康実の次男正康,寛永年間野田理兵衛,正保年間儀俄重左衛門・野田宮内(輪番と思われる),慶安年間~承応2年太田義奥,万治年間広田四郎右衛門・伊藤弥左衛門,寛文年間米内孫右衛門・清水源右衛門が知られる(紫波町史1)藩主南部氏は居城盛岡城築城中の慶長~寛永年間の一時期郡山城に在城し,城代中野氏は同城中野館に居住していたと思われる郡山城は天正20年の領内諸城破却に際して破却を免れたが,寛文7年に破却されて城代も廃された郡山城廃止後も,城下町は二日町(上町)を中心に日詰町・下町の3町から構成され,郡山三町(郡山御町ともいう)と総称され,奥州街道の宿場町,北上川航路の港町として発展を続けた郡政の中心としても,城代が置かれていた時にはその管下に大迫【おおはさま】代官所など8代官所が属し,それらの役所もすべて当城下にあったと推定され,城代を廃したのちも二日町に日詰通・長岡通の御役屋が,下町に弘化4年高水寺村から移った徳田通・伝法寺通の御役屋がそれぞれ置かれていた(同前)また,当城下には当地域の年貢を収納する郡山御蔵(文化年間日詰御蔵と改称,全5棟で1万400俵を収納できた)があり,長岡通・大迫通を担当する東根御山奉行,日詰通・徳田通・伝法寺通を担当する西根御山奉行も配されていた郡山村としての当地の高は,「正保郷村帳」475石余(田381石余・畑93石余),「貞享高辻帳」558石余,「天保郷帳」798石余,「安政高辻帳」640石余「邦内郷村志」「本枝村付並位付」「旧高旧領」には郡山村の名は見えないなお,「仮名付帳」では二日町村を枝村としているほかに高水寺村から分村したといわれ(管轄地誌),当城下に付属する日詰新田・二日町新田があり,弘化年間頃の例ではこれら新田の村役人はすべて当城下の町人によって占められていた(紫波町史1)家数は,「邦内郷村志」では郡山三町で395,「本枝村付並位付」によれば,日詰町は日詰新田のうちに記され232,二日町・下町は二日町新田のうちに記されて二日町54・下町70郡山三町の町人人口は,元禄11年2,110(男1,106・女1,004),安永5年2,243(男1,330・女913),寛政10年2,623(男1,484・女1,139),天保11年2,623(男1,475・女1,148)である(紫波町史1)当城下には常時5人前後の給人が居住し,弘化3年の二日町大絵図には走湯神社南東に大崎甚右衛門・玉山所右衛門・久慈千治・下河原左衛門などの給人屋敷地が見えるまた,日詰通・長岡通代官配下に10人の同心がおり,天保9年には同社の東にその屋敷10戸があって組町や下小路と呼ばれていた(同前)郡山三町には各々町検断が置かれ,各々10日交代で伝馬の継ぎ立てをしていた北上川舟運が盛んになると,川舟通行を取り締まるため寛文8年郡山古城下の北上川端に番所を設置し,のちには隣村桜町村下川原の地の郡山河岸に船肝入が置かれ,幕末には二日町の忠助などがその役をつとめている(同前)慶長年間頃当城下に宿駅が開設される以前は,定期市中心の市場商業が営まれていたと思われるが,慶長~天和年間には地元商人による商業活動が促進され,これ以後近江商人の台頭があり,日詰町を中心に井筒屋・鍵屋などの商家が興り,店舗商業が発達した当城下の町人には宝暦4年・明和7年などたびたび藩への貸上金を割り当てられ,日詰町の豪商美濃屋では天明4年から明治3年までに金1万3,315両余などを貸し上げている大工・鍛冶屋など諸職人も当地に多く居住するようになり,延宝8年の職人数は,大工11・木挽3・左官2であったが,明治初年頃までには職人数は数倍に増加している(同前)八戸藩領と盛岡藩領の村々は滝名川の用水をめぐって江戸期を通じて水論を繰り返し,升沢村志和稲荷社前でのたびたびの抗争では,天保11年当城下下町の者が死亡することもあった(同前)明治維新後,明治2年日詰通・長岡通・徳田通・伝法寺通と大迫通の一部(佐比内【さひない】村・亀ケ森村・大迫町・内川目村・外川目村)を管轄する日詰部会所(のち郡山部会所と改称)をもとの日詰通・長岡通代官所仮屋に開設し,同3年4月郡山部民事出張所と改称,同年9月廃止された(紫波町史2)郡山三町は明治初年日詰町は日詰新田,二日町・下町は二日町新田の各一部となる




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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