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不来方(中世)


戦国期に見える地名岩手郡のうち盛岡の古名中世の諸記録に見えるが,文書の上では戦国末期にはじめてあらわれる前九年の役ののち,清原武則の舅,迂志方【こしかた】太郎頼貞がこの地に城を築き,鎌倉期には工藤小次郎行光の一族が居住したと伝える(県史談/地名辞書)「祐清私記」によれば,南部伊与守信長は不来方の南館・北館を拠点として工藤小次郎光家の厨川城を攻略,工藤氏から岩手郡の地頭職を奪ったそして不来方には福士伊勢入道慶善(政長)・糠部彦次郎の両人を目代として置き,岩手郡33郷を管せしめたというあるいはまた,建武元年までは工藤光家が不来方城主であったともいう(地名辞書)これらの伝承の詳細は疑わしい点もあるが,南北朝期を過ぎる頃までに,三戸南部勢と結ぶ福士氏が不来方の領主となっていたことは確実である不来方城を福士館・慶善館といいかえる別称の生ずる所以である「福士家譜」には,福士慶善政長の嫡孫,親行が不来方を拝領,これによって「不来方殿」と称したとある南部親行の応永11年のことという(県史3‐225頁)室町期の永享7・8年,和賀・稗貫【ひえぬき】の動乱に際しても,福士伊賀守禅門の守る不来方城は南部勢2~3万騎の集結基地となった(奥南盛風記・稗貫状)福士氏は南部家譜代の重臣主家の南部氏と同じく甲州武田源氏を称する本来は南部氏と同族かただし,明徳2年福士五郎政長の時にはじめて下向とも伝える(県史3‐226・227・315・356・358頁)「八戸鵜飼文書」によれば,福士宮内少輔・刑部少輔・九郎右衛門・淡路らは南部信長より「不来方沙汰等之事,四人談合仕候て,可相究申候」と命じられた米内【よない】の大豆門権現の棟札には,「天正十一年不来方淡路再興」とあった(県金石志)戦国末期に至るも,不来方城の福士一族が健在なること明白である天正20年の「諸城破却書上」には「不来方 平城 福士彦三郎持分」と記されているしかし城内には,日戸内膳・米内右近らの居住する郭もあったと伝える(県史談など)南部傘下の諸家寄合の大規模かつ複合的な城であった淡路館丸・慶善館(北館)・日戸館(南館か)などという郭の名称が知られる(南部系譜附録/地名辞書)不来方城が南部氏の居城となり,名称も盛岡城と改められたのは,豊臣秀吉の奥州仕置を経た近世初頭のことであった大幅に拡張された盛岡城の縄張から,不来方城の往時を復元することはむずかしいなお,文禄5年南部信直印判状などは「不来方」のかわりに「子次方」と記している(国統大年譜・県史3‐383頁)なお,不来方の地名の由来については,往古当地方を荒らしていた鬼が三ツ石神社の神に捕らえられ,岩に手形を押して二度と来ないことを誓約,許されたことから命名されたという伝説があるまた,アイヌ語で砦・戦塚の意であるともいう




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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