下厨川(近代)

①明治22年~現在の大字名。はじめ厨川村,昭和15年からは盛岡市の大字。明治22年の面積1,000町余,戸数587・人口2,845(県町村合併誌)。明治23年平戸【へど】に日本鉄道(現国鉄東北本線)盛岡駅が開設され,駅前と市街地を結ぶため北上川に開運橋が架けられた。また,駅の西側には鉄道工場があり,官舎が建てられた。同26年木伏に岩手警察署が移転(県史12)。同41年に工兵第8大隊が,翌42年には騎兵第8旅団がそれぞれ赤袰前と鉄砲道に置かれた。大正元年の5万分の1地形図によると,地内北部には種馬育成所・岩手種馬所・練兵場・工兵作業所・突貫橋・攻撃橋・盛岡監獄署(のち盛岡少年刑務所)・郵便局・陸軍病院があった。同2年一部が盛岡市下厨川となるが,昭和15年残部が盛岡市に編入する際に再び同地区を合併。同20年同地区は館坂・下厨川馬頭・下厨川長畑・下厨川小屋塚頭・狐森・権現坂・宿田・宿田後・境田川原・下厨川寺ノ下・畑中・片原・下田・三十軒・木伏・平戸・中川原・三ツ家の18町に分離。同21年字鉄砲道・長畑などにあった旧騎兵旅団兵舎に外地からの引揚者が入居して通称青山町(現青山1~4丁目)が生まれ,同24年には字赤袰前に市営住宅が建設され,以後急速に地内の宅地化が進んだ。近年は,西隣の滝沢村と接する地域を中心として宅地化が一層進み,同村の巣子・鵜飼などは盛岡市の商業圏に入っている。また,滝沢村と当地には国や県の農林畜産関係の研究機関が集中しており,相互の関連を深めている。昭和43年には,東辺を流下する北上川に多目的ダムである四十四田ダムが完成した。四十四田ダムは北上特定地域総合開発による5大ダムの1つで,流域面積1,196km[sup]2[/sup]・湛水面積3.9km[sup]2[/sup]・総貯水量4,710万m[sup]3[/sup],最大出力1万5,100kw,3,716haの水田の灌漑のほか北上川の水質浄化の役割りも果たしている。なお,水没地域は南部片富士湖と呼ばれ周辺では市の都市公園の計画も進められている。一部が昭和33年青山1~2丁目,同35年青山2~4丁目,同40年中屋敷町・天昌寺町・中川町・前九年1丁目,同41年上堂1丁目・前九年2丁目・安倍館町,同44年青山1~4丁目・月が丘1~3丁目・南青山町・大新町・西青山1~3丁目・中堤町・北天昌寺町・大館町・長橋町・稲荷町,同47年厨川1~3丁目・上堂2~4丁目,同51年厨川4~5丁目・みたけ1~6丁目・月が丘3丁目となる。昭和40年以降,下厨川の地域は次第に市の北西部にあたる農林水産省東北農業試験場などの敷地のみとなる。②大正2年~昭和14年の盛岡市の大字名。もとは厨川村下厨川地内の盛岡駅周辺と陸羽街道沿いの地域。江戸期は下厨川村の町場であった地域。地内は館坂・馬頭など18の字に分かれていた。大正末年の状況は,盛岡駅から開運橋にかけて商店が並び,専売支局出張所・郵便局があり,南に火力発電所・瓦斯会社・製氷工場があった。また三十軒に岩手県是製糸(現片倉工業)工場もあった。同社は,明治40年長野県の尾沢組が三十軒に創設した尾沢組盛岡製糸場の後身で,昭和4年岩手県是製糸株式会社となり,同13年本宮村仙北町の元県繭糸販売購買組合連合会盛岡工場を買収して移転した。木伏・平戸の住宅街は栄町とも称された。厨川小学校は三十軒にあったものを昭和12年に館坂に移した。同15年1月1日旧厨川村下厨川に合併。合併当時は,下田・三十軒に人家が70軒ほど集まっていた。なお,当地区から昭和20年館坂・下厨川馬頭など小字名を継承した18町が起立している。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7253907 |