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紫波郡


はじめ全域盛岡藩領であったが,寛文5年八戸藩が新たに成立する際,稲藤村・土館村・片寄村と平沢村の一部(上平沢村)が八戸藩領に編入された。盛岡藩領の村々は各々上田・飯岡・向中野・見前【みるまえ】・伝法寺・徳田・日詰・長岡・遠野の各通に属し,八戸藩領の村々は同藩紫波通に属した。天正19年高水寺城は郡山城と改称され,初代城代にもと斯波氏家臣の中野康実が任じられたという(紫波町史1)。同城には慶長~宝永年間盛岡築城中に盛岡藩主も一時居住し,寛文年間城は廃されたが,日詰長岡通代官所・徳田伝法寺通代官所・大迫【おおはさま】通代官所などの藩政下の諸役所が置かれた同城下は,江戸初期の奥州街道の整備による宿駅の設置,北上川水運の発達に伴う当郡流通の中心地ともなって栄えた(同前)。村数・石高は,「正保郷村帳」51か村・1万3,868石余(田1万1,964石余・畑1,903石余),「貞享高辻帳」では盛岡藩領48か村・1万3,615石余,八戸藩領4か村(上平沢村を一村とする)・2,764石余,元禄10年の「郷村御内所高帳」では八戸藩領は4か村・6,877石余,「邦内郷村志」では盛岡藩領は72か村・4万528石余,「天保郷帳」51か村・4万7,185石余,「安政高辻帳」では盛岡藩領は48か村・3万2,146石余,「旧高旧領」75か村・5万4,630石余。「邦内郷村志」によると,盛岡藩領の人数2万1,985(男1万1,984・女1万1)。「本枝村付並位付」では盛岡藩領の村数73。盛岡藩領の武士や宗教関係などを除く農民・町民人口は,天和3年1万9,434(男1万479・女8,955)でほかに郡山城下2,167(男1,131・女1,036),元禄5年2万701(男1万12・女9,689),正徳2年2万1,871(男1万1,649・女1万222)でほかに郡山城下2,189(男1,175・女1,014),宝暦2年2万1,279(男1万1,498・女9,781)でほかに郡山城下2,404(男1,305・女1,099),寛政2年2万1,718(男1万1,365・女1万353)でほかに郡山城下2,229(男1,315・女914),文化13年2万4,197(男1万2,721・女1万1,476),天保11年2万4,170(男1万2,710・女1万1,460)である(県史5)。八戸藩領の人口は,享保17年5,050(男2,794・女2,256),宝暦12年5,230(男2,910・女2,320),文政2年3,564(男1,937・女1,627)で家数が669,天保15年3,294で家数549(紫波町史1)。南部利直は盛岡城下の建設にあたり,当郡地方を城下の人々への食料供給地とするため釜津田甚六に命じて穴堰の開削を行い,慶長4年雫石川の平坦部出口付近に取り入れ口をもつ慶長穴堰が完成した。寛文5年八戸藩領の成立によって領地の一部を失った盛岡藩領下では,それを補うための新田開発が当郡などで行われて20か村もの村が誕生したという。また,寛文12年には盛岡藩・八戸藩の領界に境塚が築かれ,当郡の一部が八戸藩領に編入されたことにより,従来の入会関係が乱れて紛争となることもあった(同前)。郡山城下や上平沢村には寛文年間以降村井・小野一族の近江商人が店を構えて盛んに商業活動を行った(同前)。特に郡山井筒屋は藩政と深く結びつき巨利を得ていたが,藩の悪政とともに豪商にも民衆の批難が高まると,郡山井筒屋はその対象とされ,藩の御用金を拒否したこともあったためか,同家は安政6年には藩から領内追放処分を受けた(同前)。だが,同家は藩内にあった別家衆の復帰運動により藩内財界のもう一方の実力者鍵屋茂兵衛の斡旋を得て文久元年には追放処分が解除されている(同前)。丹波杜氏・越後杜氏とともに日本三大杜氏として有名な南部杜氏は,その源流が近江商人の伝えた池田流で,当郡の村井権兵衛(近江屋)がその中心であったといわれる(盛岡市史)。郡内の佐比内【さひない】・赤沢・舟久保を結ぶ金山地帯は閉伊郡小友金山などとともに領内産金の中心をなしたが,江戸前期頃には採掘も峠を越して衰微していった(紫波町史1)。山王海盆地から東進する滝名川は升沢村志和稲荷社前で,八戸藩領に注ぐ滝名川本流(身川)と盛岡藩領に注ぐ高水寺堰に分かれていたが,この滝名川用水をめぐって両水系の両藩農民がしばしば引水闘争を起こし,「志和の水げんか」と称された(同前)。特に天保4年・同11年・慶応元年などの水論は死者や多くの負傷者を出すなど激しいものであったことが知られる(同前)。東根山の下通を山続きに花巻道に出る西山根道,三戸地方から不来方(盛岡)を経て,佐比内を通り遠野に出る東山根道(東街道)が古くからあり,この2つの道を不来方~湯沢間の向中野道が連結していた(紫波町史1)。江戸初期には奥州街道が整備されて交通の中心もそれに移った(同前)。奥州街道の発達によって屈曲・難所の多い西山根道は荒廃し,升沢村志和稲荷社への参詣人に利用される程度となった(同前)。志和稲荷社は利直以来藩主南部家の崇敬篤く,100数十人の供を従える直参のほか,代参も度々行われていたが,西山根道の荒廃はその参詣にとって多大の不便をもたらしていた(同前)。このため藩主利済は天保5年手許金による稲荷街道の開削を実施し,赤林村の崖から志和稲荷社までの区間が完成した(同前)。藩主の参詣を目的にしたこの道は幕末期まで村方の義務人も徴用して強制的に維持管理されたが,明治維新後は再び荒廃して廃道同然となった(同前)。郡山古城の東方の北上川には座和・日詰の両渡場があったが,弘化2年には承慶橋が架せられ,江柄村で東街道から分かれて犬吠森村を経て佐比内村付近で再び東街道に合わす東新街道の開発も行われた(同前)。しかし,度々の洪水によって嘉永6年には承慶橋が廃され,同橋によって日詰と大迫方面を直結する道も廃止された(同前)。「奥々風土記」に見える当郷の産物は畳表・せんべい・おこしなど。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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