千徳(中世)

戦国武士千徳氏の本拠地。閉伊郡のうち。千徳氏の始祖は一戸信濃守政英。南部氏によって派遣された政英が千徳に入部の年代は文亀2年と伝える。千徳羽黒神社天文8年の棟札には「大檀那南部源朝臣千徳二郎殿」と見える(県金石志)。天正15年千徳(仙徳)一戸政氏は大浦為信与同の疑いにより所領を没収され,南部家臣桜庭直綱が替わりに入部した(一戸系譜)。桜庭氏の千徳領知は近世末期にまで及んだ(下閉伊郡志)。ただし,千徳一戸氏の没落については諸説あり,正確を期しがたい。「奥南落穂集」は閉伊侍中として仙徳城主仙徳伊予守行重をあげ,「南部一門一戸後胤,南部氏一戸氏ヲ称シ,閉伊衆服従,目代トシテ仙徳城ニ住ス」と記す。盛岡藩士仙徳氏に連なる由緒が知られる(県史3‐436頁)。南部一戸氏入部以前の千徳は河北閉伊氏の根拠地であったとみられる。近くの花原市【けばらいち】華厳院は閉伊頼基創建の氏寺という。室町期の延徳元年却外長現禅師が再興。天台宗から曹洞宗への改宗もこの時とされる。あるいはまた,南北朝末期の天授5年,土岐孝長の入部があったとも伝える。孝長の子,孝愛が発見の泉は当地の旱魃を救い,当地の名称を中村から泉徳(仙徳・千徳)にあらためる機縁をなしたという。土岐氏が滅んだのは孝愛の曽孫,善勝の文亀元年,南部信時の攻略によると伝える。土岐氏時代の千徳は郡内唯一の市街地であった。土岐氏の系譜については「県史」2-296頁。瑞源山善勝寺は応永2年初代土岐孝長の開基,5代善勝の中興と伝える(下閉伊郡志)。千徳城は閉伊川の下流一帯,さらには根城・老木・田鎖・松山・小山田など閉伊田鎖党の諸城館をも一望のもとにおさめる要衝の地にある。主郭~五郭に分かれ,空濠によって仕切られる。雄大な規模と見事な縄張りは中世山城の典型である。河北閉伊氏による室町中期の築城。一戸千徳氏による拡張があったとみられる。320m×420m。主郭の標高78m(城郭大系2)。天正20年の「諸城破却書上」には「千徳 山城破却 一戸孫三郎持分 唐之供留守甲斐守」と記されている。千徳館神八幡宮は南館と称する砦上にある。千徳には馬牧もあった。「永正五年馬焼印図」(古今要覧稿)には「オントク,印筒別紙にみゆ,むかし閉のかちうまこや,馬大也」と見える。オントクはセントクの誤記であろう(日本馬政史)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7254037 |