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千馬屋郷(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える郷名。岩井郡のうち。勢間屋郷とも記す。岩井郡は葛西氏の所領五郡二保の1つ。したがって当郷もまた葛西領であることはいうまでもない。鎌倉後期の弘安8年3月15日,下野国の御家人茂木【もてぎ】三郎知氏は母の尼慈阿より当郷を譲り受けた(茂木文書)。慈阿尼は葛西伯耆四郎左衛門入道(清時)の女子。女子分として分譲された所領の一部が,婚姻によって他家に流出することとなった典型的な事例である。茂木氏の当郷知行は,建武4年越中権守知貞法師(明阿),文和2年弥三郎知世(知音),至徳元年三郎基知,嘉慶2年幸献丸(知清),応永11年満王丸などを宛所とする文書の存在によって確認される(同前)。このうち勢間屋と記すのは文和年間以降の3通である。千厩と記すのはさらに遅れて,室町末期の明応8年薄衣状あたりからである。しかし,岩井郡内一円に広がる葛西領のなかで,ただの1か所,あまりにも孤立した,しかも本拠地下野国茂木郷から遠い当郷の知行を茂木氏が守り通すことは困難であった。室町・戦国期には葛西領の一部として併呑されるに至る。当郷には室町・戦国期に金野(今野)氏が拠っていた。金野氏は鎌倉期の建久年間,葛西清重の臣,里見義綱が東岩井に所領を給され千厩郷に居住,母方の姓を採り金野と改姓したものという。また,気仙郡司金氏の流れともいう。「伊達正統世次考」所引の天正17年正月18日付留守景宗書状には葛西家臣「千厩小太郎」が見え,これは金野(今野)氏9代の右馬允重安かともいう(県史2-71・894~901頁など)。江戸期貞享年間の「仙台領古城書上」にも,「千厩城,山城,此城主金野右馬丞と申伝候」とあった。千厩の白山権現社は小山と称する地にあり,この地には古昔,八幡宮があって永正年間には葛西家臣今野土佐なる人物が居住していたと伝える(封内風土記)。なお,文禄3年豊臣秀吉が金山掘子から1年3度の御本判役(金山税)の取りたてを命じたことから金山一揆が勃発,東山・気仙・本吉の金掘3,000人が蜂起した。白石豊後・及川豊前らが金山奉行として鎮定にあたり,一揆の頭取38人を六道長根で磔の刑に処してその死体を4つの塚に埋めた。これが六道塚として残っている(安永風土記)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7254046