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角懸郷(中世)


 南北朝期に見える郷名。江刺郡のうち。「小山文書」観応元年8月20日藤原秀親譲状に,「一所 陸奥国遠野保地頭職事」と並んで,「一所 同国江刺郡内角懸郷半分地頭職事」とある。南北朝期の当郷が阿曽沼氏の所領となっていたことが知られる。なお,藤原秀親を小山氏とする定説は訂正されなければならない(小山文書についての覚書/小山市史研究1,小山市史史料編中世解説)。それより以前,建武元年8月,陸奥国司北畠顕家は「面懸左衛門尉以下輩」の横領を退けて,遠野保を阿曽沼朝綱に返付せよと命じた(遠野南部文書)。「面懸」は角懸の誤記か(地名辞書・遠野市史)。とするならば,江刺郡の角懸から郡境の山を越えて侵略がなされたということになる。それが逆に,観応年間には角懸郷の側が遠野氏の所領となったのである。角懸氏は江刺郡地頭葛西氏の配下。始祖は肥後国菊池郡の住人,菊池蔵人武恒。永正年間に奥州に下り,葛西家に仕え,江刺郡角懸・田谷・伊手・糯田・大田代を給された(角懸菊池氏の系譜については県史の2‐724~729頁に考証がある)。戦国末期の角懸右近丞(定恒)は江刺家の重臣。天正16年正月28日葛西晴信書状にその名が見える(江刺玉里菊池家文書/県史3‐117頁)。右近丞の子,四郎兵衛尉重勝は葛西氏没落ののち,伊達政宗に仕えて60石を給された(伊達世臣家譜15)。角懸菊池氏の分流は人首川流域の各所に広がる。青篠城は角懸菊池氏の本拠地。青笹館・古館とも称する。青篠集落の西端,人首川の段丘上にあった。平城。東西100m・南北200m。遺構は残らない。館跡には菊池氏宅・観音堂・守林寺が建つ。館主は菊池右馬丞と伝える(仙台領古城館)。ただし,青篠城主菊池右近恒邦が天正15年江刺氏に逐われた,とする所伝もある(城郭大系2)。元町の羽山城(古館)は角懸右(左)近の居所と伝える。円郭式の山城(比高20m)。羽山神社の高地は物見台とされる。南麓の雑木林は刑場跡という。石仏多数が建つ。森下の角掛森古館は角懸四郎兵衛の居所と伝える。人首川に面した断崖上にあった(比高50m)。川南の愛宕神社は物見台か。今は土取場となり遺構は残らない(同前)。角懸瑞徳寺は文安2年,正法寺笑岩恵忻和尚の開山という(安永風土記)。瑞徳寺末の青篠山守林寺は大永2年照庵良東和尚の開基。守林寺の釈迦如来像には,永禄3年の墨書がある(県金石志)。白山神社には,永禄12年願主新山禰祈(宜)筑前の墨書する巡礼札が残る(同前)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7254251