糠部郡(中世)

鎌倉期から見える郡名馬淵【まべち】川流域の県北部(二戸郡・九戸郡・岩手郡葛巻町など)から青森県東部の三戸・八戸・下北半島までをも含む広大な領域に及ぶ「吾妻鏡」文治5年9月19日条に載せられた中尊寺衆徒ら注進の寺塔已下注文に,「糠部駿馬五十疋」とあるのが初見それによれば,平泉毛越寺の本尊薬師丈六の造営に際して,京都の仏師,雲慶のもとに届けられた「功物」,円金100両・鷲羽100尻・水豹皮60余枚・安達絹1,000疋など莫大な数量にのぼり,糠部の駿馬もその重要な一環をなしていた毛越寺造営の平泉藤原氏2代基衡の頃にはすでに,糠部の郡名が存在したことが知られる前九年・後三年合戦を経て,平泉藤原氏による北奥支配の確立した11世紀末~12世紀初頭が,糠部郡の成立期とみられる鎌倉期糠部郡の地頭となったのは北条氏であった鎌倉の北条氏は郡内を一戸~九戸,さらには東・西・南・北の四門に分けて,代官を派遣して所領管理にあたらせた代官として派遣されたことが知られる北条氏の一族・被官の人名を本県に関係するものに限って記すと,一戸には工藤四郎左衛門入道・浅野太郎,九戸には北条一族の右馬権頭茂時,南門には横溝弥五郎入道,同六郎三郎入道浄円(葛巻村または中里村)などとなる一戸の浄法寺畠山,二戸の佐々木氏(近江源氏)なども代官的存在であったとみられる東門については,全く手がかりがないこれらの諸地域のうち,一戸は馬淵川とその支流安比川の流域,現在の一戸町,安代・浄法寺両町にあたる二戸は現在の二戸市,九戸は瀬月内・雪谷の両川流域の山間部,現在の九戸村・軽米町にあたる南門は馬淵川最上流の山間部,岩手郡葛巻町,東門は太平洋岸近くの種市町・大野村などに比定される郡内の主要地域を順次,一戸~九戸に分画したのちに,残余の辺地を東・西・南・北の四門に編成したものとみられる一戸・二戸を南門,三戸・四戸・五戸を西門,八戸・九戸を東門,六戸・七戸を北門とする説(地名辞書など)の根拠は乏しいなお,糠部の地名は近世においても二戸郡内の小名として残った(地名辞書)糠部郡根本の地を示唆する事実である鎌倉期の糠部郡には各所に馬牧が設けられ,公田に課せられる年貢も馬で納められた永仁5年五戸の検注帳には,「へらい(戸来)」「またしけ(又重)」「なかいち」「いしさわ(石沢)」などの各郷ごとに,3~6町のくでん(公田)が登録されていた(岩手大学所蔵新渡戸文書)同じく三戸の横溝新五郎入道跡と推定される,とまへち(苫米地)・小泉などの住人が耕す田数と貢納すべき馬疋を記す注文もあった(遠野南部文書・新渡戸文書・岩手大学所蔵新渡戸文書)一戸・二戸など,本県にかかわる地域においても事態は同然であったとみられる馬牧に働く牧士【もくし】の存在も知られる正安3年頃の人,安藤三郎の妻,「きぬをんな(女)」は,「東門種市のもくし(牧士)きとう四郎」の姪であったという(岩手大学所蔵新渡戸文書)「きぬ女」の父,「せいとうさいく(細工)」は「らうにん(浪人)」,母は「やくにん(役人)」と記されていた地頭の夫役を負担する役人と免税の浪人とに住人を区分する制度が知られるきぬ女の子息・縁者は三戸・五戸・八戸・東門・西門・北門など,糠部郡内の各所に広がっていた馬産地としての糠部の評判は高く,「源平盛衰記」などの諸書にも糠部産の名馬のことが,たびたび記されている熊谷次郎直実が上品の絹200疋を投じて搜し求めたという一戸産の権太栗毛,同じく,その替馬として用意された三戸立の西楼のことは特に有名である(源平盛衰記)一之部黒(異本平治物語),一戸黒(太平記),若白毛・一名町君(源平盛衰記)などの名前も知られる猿楽狂言「うつほ猿」の小歌にも,「一の幣(戸)立,二の幣たて,三のへたて,三に黒駒,信濃を通れ,専当殿こそ勇健なれ」と,糠部の駿馬が信濃路を経て京進された様子を示している(地名辞書)「源平盛衰記」「平治物語」などの記事を信ずるならば,一戸・二戸などの地域区分は平安末期には存在していたことになり,その意味でも興味深い鎌倉幕府の滅亡により全国各地の北条氏所領は没収され,他氏に宛行われることとなった北条泰家の所領となっていた糠部郡は没収されて,足利尊氏に宛行われることとなった(比志島文書欠年所領注文)糠部郡内の各地における北条氏代官の所領も没収されて,建武新政府側の人物に宛行われることとなった本県関係の新給人を記せば,一戸には中条(稗貫【ひえぬき】)出羽前司時長・横溝孫次郎,九戸には結城参河前司親朝,南門には横溝彦三郎祐貞・同孫六重頼・伊達五郎入道善恵などとなるこのうち,九戸の給人,結城氏に対しては,「貢馬以下においては,懈怠なく沙汰をいたすべし」と命じられた(結城白河文書元弘3年12月18日陸奥国宣)建武新政府によっても糠部の貢馬が重要視されたことが知られる南北朝期の糠部郡は諸氏の勢力が入り乱れる争乱の場と化した南北朝中期の貞和・観応年間には,奥州管領の吉良・畠山両氏によって,当郡が分割統治されたことさえもあったという永正11年に記された「余目氏旧記」に「吉良・畠山数度取合ニ,両所たいくん(退軍)にて,一度ハ無事ニ御談合ヲもって,奥州ヲ半分つつ国わけヲし給ふ,其時ハ糠延(部)郡とみやき(宮城)ヲハ,一郡ヲ半分つつわけ給ふ,そのゆへ(故)ハ,ぬかのふハ大郡といひ,しゆくのこほり(郡)たるゆへなり,みやきは国の府中ニて,昔より国之あるし(主)御在所たる間也」と見える糠部郡は奥州最大の郡たるが故に,特別に重要視されて,府中の在所たる宮城郡と並び称せられていたことが知られる府中の守護神,同時に奥州一宮たる塩釜神社の神領が,糠部さらには外ケ浜に設定されていたことも記されているこのような諸氏の勢力が入り乱れる南北朝期の争乱の中で,次第に勢力を拡張し,他氏を圧倒して糠部郡全域の覇権を掌握するに至ったのが,南部氏であったことはいうまでもない鎌倉期には北条氏代官の一員にすぎなかった南部氏が,同じく代官の工藤氏などと縁を結び,八戸・三戸などを地盤に勢力を拡大していく過程は,1つのドラマであったそして,室町期に入る頃には,糠部の覇者として,北奥全域に影響力を及ぼすに至ったものとみられる室町・戦国期の糠部郡は馬産地として天下に聞えること,前代以上の観を呈した永正5年八条近江守房繁の作といわれる馬焼印図(古今要覧稿)には,一戸~九戸の各牧から京進される馬に押された烙印のことが記されているそれによれば,一ノ部(戸)10か村の馬は両印雀(左右に雀)の烙印ただし,桂清水の馬のみは特別に片車の印を押したという二ノ部7か村の馬は両印雀と二文字の印ただし,あひかびの馬のみは四ツ目結この印は牧の本主(旧領主)佐々木庶子の家紋というあひかび牧の別名を佐々木ノ部と称する三戸~八戸は省略して,九戸の馬は雀印であったという一戸~九戸のそれぞれに7か村,糠部九か部(戸)の合計は63か村であったとされる各牧の規模は不明だが,六戸のきさき(木崎)は8,000疋の牧,八戸のめう野(妙野または三保野)は9,000疋の牧と記されている「糠部馬のこんほん(根本)のかね(烙印)は,有文字・来文字・かた車ならびに,くわかた・いほりの中のすぢかへ・雀・二部(戸)の四目結これらなり,このほか,あるひは島井・よみとり・こばんのせいもく,くつかた・鴨形・口縄・相いかた(筏)・千鳥・さくさい以下,さういん,百姓らがわたくし(私)の印これおほ(多)し,其かず(数)をし(知)らず」と最後に総括的に記されている「永正5年馬焼印図」は京都の人々によって糠部の駿馬がどれほど賞翫されていたのかを示す絶好の材料であった天正18年豊臣秀吉の奥州仕置そして翌年の九戸合戦を経て,天正20年,南部信直は三戸城を離れて,九戸政実の旧居,九戸城に本拠を移した城名も福岡城と改められた三戸城は破却された姉帯・一戸・葛巻・種市・古軽米・金田一など諸城郭の破却も同時期であった(諸城破却書上)これら諸城の破却は糠部郡における中世の終末をなによりも鮮やかに示す象徴的な事件であった

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7254544 |