日高見国(古代)

奈良期~平安期に見える国名蝦夷の国の大称ただし,その用例は,時代により,また場所により,大きな変化があるそれは,蝦夷の実体の歴史的変化に対応したものと考えられる「日本書紀」景行天皇27年には,北陸および東方諸国を視察した大臣武内宿禰の奏言というのが載せられている「東夷の中,日高見国あり其の国人,男女並びに椎結(髪をあげ),身を文す(いれずみしている)人となり勇悍なり是をすべて蝦夷と曰う亦,土地沃壌にして(肥えて)曠し撃ちて取るべき也」これが,「日高見国」の初見であるその歴史的性格は以下のようにまとめられる1つ,日高見は東国エミシの中の特別エミシ国として存在する1つ,その特別エミシのことを,分けて「蝦夷」という(エミシを蝦夷と書くのは,せまくこの日高見エミシについてのことである)1つ,日高見蝦夷はすべてもとどりを結い,いれずみをし,勇猛果敢な人たちである1つ,その土地は広大で肥沃である1つ,国家としては,この日高見国を征服して,領土に編入する政策を国策として実行すべきである武内報告に基づいて,同天皇40年には,皇子の日本武尊の蝦夷東征が行われるこの時の「日本書紀」の記事で,蝦夷の性格について,さらに以下のような特徴が追加される1つ,蝦夷には村邑に長ないし首【おびと】とすべき指導者がいない1つ,かれらは冬は穴に寝,夏は木にすむ生活をしている斉明天皇5年7月3日紀において,1つ,かれらには距離により都加留【つがる】(遠蝦夷)・麁蝦夷【あらえびす】(中蝦夷)・熟蝦夷【にぎえびす】(近蝦夷)の3つの区別がある1つ,蝦夷には五穀なく食肉の生活である,などの諸性格が再追加されて,これで,古代史上の蝦夷観念がほぼ出そろい,総括して「あらぶる人たち」「まつろわぬ者たち」と要約されたその蝦夷国を日高見国といったとあるのは,かれらの自称によるものと考えられ,これは「日が空高くのぼる四方広大の国」の意味と考えられ,谷川士清「倭訓栞」によれば,この「日高見」から蝦夷のヤマトことば的自称たる「日の本」の称が出たことになる日高見国は「東夷の奥」のようにいわれているから,東国すなわち中部・関東より奥の東北地方を主として指したと考えられるが,もともとは北関東あたりにこのことばのおこりがあったかもしれないしかし,日高見のことばが,最終的に落ちつくのは,東北であり,特に岩手から宮城県北にかけてである北上川は「日高見川」のなまりと考えられているもしそうであれば,この川の流れるところが「日高見本国」ということになる岩手県は,全県北上川を間にはさんで,これに結んで県域をなしているすなわち「北上川の国」「日高見の国」という性格の成り立ちを示している「常陸国風土記」信太郡条には「この地は,本【もと】日高見国なり」とあるこれによれば,奈良期,常陸国もしくはその一部を日高見国と考えていたのであるそこで,「常陸」の語義それ自体が日高見に由来するとする説が江戸期からあったすなわち常陸ヒタチは「日高見道」ヒタカミミチからヒタカチ↑ヒタチとなったものだとするのであるその際,「日高見道」を「日高見への道」とするのと,「日高見国」そのもの(道は国の意)とするのと,2説あったいずれにしても,常陸国が日高見国ゆかりの国名であることに変わりがなく,これにより,日高見国のはじまりは,東国にあり,常陸国がそれを承けて第1次日高見国,北上川流域の中陸奥国が,後期第2次日高見国,という見通しになる貞観元年5月18日,陸奥国正五位上勲五等日高見水神に従四位下を授けたと「三代実録」にある「延喜式」には,陸奥国桃生【ものう】郡6座のうちに「日高見神社」があるから,日高見神社は桃生郡鎮座の水神つまり河伯神であることがわかる桃生郡には桃生城があるが,この城は「大河に跨」がってたてられていたこの大河とは北上川のことであったから,ここの日高見水神というのも,北上河伯のこと,すなわち日高見河伯だったのであるこうして,すくなくとも,平安初期,蝦夷経営が多賀以北から胆沢方面に及んだ段階では,日高見国を「北上川流域世界」とみなす考えかたは確定していた延暦8年の胆沢会戦に渡河部隊が西胆沢から東胆沢に渡った時の「日上湊」(ひかみのみなと,もしくはひなかみのみなと)もおそらく「ひたかみみなと」の意味であるし,「続日本紀」延暦16年上表文に「威,日河の東に振い,毛狄,息を屏【とど】む」とある「日河」も「日高見河」の略称であること,明瞭であるこうして,古代史上,最後の日高見国すなわち蝦夷本国を北上川流域世界と把握する考えかたが固定的になっていたことが,はっきりするのである祝詞「大祓詞」および「遷却祟神詞【たたりがみをうつしやることば】」には,「かく依さしまつりし四方の国中に,大倭日高見国を,安国と定めまつりて」ということばがある国学者は古くから,この日高見国を大倭の美称と考え,ヤマトの国が空高く,真秀【まほ】に晴れわたる国であることをほめたたえたものと解し,定説になってきたしかしこの解は正しくない日高見国は,古典に典拠のある固有の使いかたで,それは一貫して,蝦夷国について用いられているもし,大祓詞などの祝詞が,このことばを大倭すなわち大和の美称のように用いているのであれば,なぜ,そのような蝦夷についての用法が,大和に結びつくことができたかの説明がなさるべきであるのに,そのことについては,何も触れられていないこれは,大倭国と日高見国とを合わせ一つにして安国として治めることが,大和朝廷の国家統治の大方針であることを示したもの,と考えるべきで,東国経営・蝦夷経営によって古代国家が安定することをいったもの古代蝦夷経営の国家的意義を確認した文章といえるのである

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7254703 |