前沢(中世)

南北朝期から見える地名。伊沢郡のうち。舞沢ともある。「正法年譜住山記」永和2年条に「下伊沢郡舞沢郷之内,椙崎田千苅道於之寄進」とある。黒石正法寺領として寄進された田地のことが知られる。「柏山平左衛門先祖の事」(水沢市史2)によれば,柏山譜代の侍,三田仁左衛門は前沢4,000石を給されていたが,謀叛の嫌疑をかけられて討死した。三田刑部(将監)も同時に自害したという。三田氏の滅亡は天正16年頃の出来事かとされる(県史3‐113頁)。柏山家宿老としての三田氏の声望は大きく,郡内に肩をならべるものなしといわれた。三田主計にあてた葛西高信の文書1通(県史2‐877頁),三田弾正少輔に宛てた葛西晴信の文書3通(県史2‐1057頁,3‐39・111頁)などが知られる。なかでも,天正15年10月晴信の文書には,三田刑部が柏山家の陣代として50騎を引率,気仙・元吉(宮城県)方面で活躍したことが記されている。三田氏滅亡後,柏山の一家,小山氏が前沢の領主となった。三田氏生き残りの1人は和賀鬼柳氏の許に身を寄せた。近世には盛岡藩士となる(三田氏の系譜は県史3‐114頁)。字陣馬の前沢城は町並を見下す比高80mの高台にある。本丸跡は旧前沢中学校のグラウンド,今は公園となる。東西50m・南北120m。東・南・西の3面は断崖をなす。城主は樫(柏)山彦九郎常治,または柏山平四郎と伝える。三田氏滅亡後,当地に入部の樫山(小山)氏の一族か(仙台領古城館)。上野の白山社跡は中尊寺白山社の本宮跡と伝える。檀ケ森は奥羽三十三番札所のうち18番漆寺長谷観音堂の旧跡と伝える。村鎮守熊野社は天正年間,樫山彦五郎より田地3,300苅の寄進をうけたという。中屋敷の一里塚は平泉藤原秀衡時代のものと伝える。楊生森は八幡太郎義家の的場跡と称する。同じく,駒吸清水は義家の馬が吸い出した名水という(安永風土記)。臨済宗宝林山霊桃寺は鎌倉後期の正応2年仏源禅師の開山。あるいはまた文永6年の開山ともいう。はじめ興化寺,慶長年間の泰安禅師によって興化山宝林寺と改められ,その後さらに現在の寺号に改められたという(封内風土記)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7254878 |