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和賀郡


和賀郡建置の史料は明瞭である。「日本後紀」弘仁2年正月11日条に「陸奥国に於て,和我・稗縫(貫)・斯波三郡を置く」とあり,北の稗貫・斯波【しわ】と同時に建置されたのである。ただし「延喜式」に載らないのは,「延喜式」がそれ以前の「弘仁式」(これにも和賀建郡記事は載っていなかった)をそのまま踏襲したからである。ただし,和賀の記事はそれより前に見えている。奈良期,天平9年,大野東人が陸奥国多賀城と出羽国秋田所在の出羽柵とを結ぶ公道を開こうとして,軍事行動をおこすにあたり,奥方面の蝦夷の動揺を防ぐため,蝦夷出身の族長を派遣,これを鎮撫したことがある。この時,田夷遠田郡領遠田君雄人を海道に,帰服の狄「和我君計安塁【けあるい】」を山道に遣わして,行動の趣旨を知らせたとある。この「和我君」がすなわち「和賀君」で,まだ政府支配下に入る前の蝦夷時代の和賀の首長だったと考えられる。江釣子【えづりこ】古墳群は,この和賀君一族にかかわる奈良朝古墳群と考えることができる。天平期の和我君は,蝦夷和賀の独立を保ったまま属国の形をとっていたのである。延暦8年の胆沢経営戦にも,胆沢の奥にある二つの独立蝦夷のクニとして「子波」と「和我」が並べてあげられていることで,そのことがわかる。弘仁2年に郡に建てられたあとの令制和賀のことは不明である。安倍時代には,頼時の五男正任が黒沢尻柵によって和賀郡の統治に当たっていた。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7255208