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若柳村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。胆沢郡のうち。明治初年には上若柳・下若柳の2か村に分かれて村名が見える(県史)。仙台藩領。村高は,寛永検地268貫余(田237貫余・畑31貫余),「元禄郷帳」2,097石余,「安永風土記」377貫余(田332貫余・畑45貫余),「天保郷帳」3,791石余,「旧高旧領」3,797石余。明和9年の家数262(封内風土記)。「安永風土記」によれば,蔵入地53貫余・給地324貫余,人頭282(うち寺1),家数304(うち水呑14)・人数1,663(男920・女743),馬444,神社は猿山神社・山神社3・愛宕社・若宮八幡社・牛頭天王社・白山社・熊野社3・伊勢社3・八幡社・伊豆社・七夜権現社,寺院は曹洞宗松原山鳳凰寺,ほかに馬頭観音堂5・観音堂3・不動堂・十一面観音堂・大日堂2・地蔵堂があり,修験は羽黒派の明性院・林生坊。猿山神社は,坂上田村麻呂が勧請したと伝え,もとは胆沢郡式内七社の中の1つ於呂閉志神社であったという。下堰袋の胆沢川神社も同式内社の1つで,大同2年郡民の勧請と伝える(胆沢郡誌)。供養塚は宝永年間に肝入三郎兵衛が一字一石の供養法華経を埋めたものと伝え(安永風土記),野上田の供養塚も同じであり,西部には経塚山もある。市野々の御番所は,秋田領手倉村との藩境に設けられた南向縦5間半・横3間の境目番所で,境横目衆が配置されていたが,寛文3年以前は地内下嵐江【しもおろせ】に置かれたものである。下嵐江は金・銀・鉛を産出する鉱山としても知られる。元和9年バテレンのカルバリヨが下嵐江銀山のマチアス次兵衛宅に潜伏,同10年逮捕された(県史4)。金入道を取り入れ口とする寿庵堰は,キリシタン領主後藤寿庵が元和・寛永年間に開削し,のち千田左馬・遠藤大学が末流の工事を完成した。茂井羅を堰元とする茂井羅堰は元亀年間に北郷茂井羅という女性が開削したと伝えている(胆沢風土聞誌)。茂井羅堰は,上下胆沢18か村の入会用水で,溜高2,105貫余うち当村分は190貫余。明治元年沼田藩取締,以後前橋藩取締,胆沢県,一関県,水沢県,磐井県を経て,同9年岩手県に所属。明治6年上若柳・下若柳の両小学校が開校,同8年両校が合併して若柳小学校となる。同10年の生徒数は男子のみ120(岩手近代教育史)。同13年の村の幅員は東西約7里11町・南北約5里31町,税地は田402町余・畑172町余・宅地46町余・荒地18町余の計638町余,戸数273(うち農業170)・人口1,997(男1,057・女940),牛8,馬449,若柳学校の生徒数は男子のみ99,鉱山には砂鉄鉱・鉛鉱・石炭鉱がある(管轄地誌)。同22年若柳村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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