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大窪村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。桃生【ものう】郡深谷二十六村のうち。長江氏没落後,一時伊達家臣湯村右近信重の成敗地。寛永8年の村高763石余。正保3年から慶安4年は田村右京宗良の領地,万治2年より登米【とめ】郡の伊達式部宗倫の飛び領地となった。天和2年所領560石余のうち290石余が等価変換により桃生郡和淵村の武田伊右衛門の領地となる(登米町史料)。郡境の新田は仙台藩の論地として有名。浄瑠璃「伽羅先代萩【めいぼくせんだいはぎ】」,山本周五郎の小説「樅ノ木は残った」で知られる伊達騒動は,宗倫所領続きの浦沢谷地が発端。宗倫が家臣に与えた谷地10町をめぐって遠田郡の伊達安芸宗重と相論,これが桃生遠田全域の郡境争いに発展した。寛文9年幕府の大老酒井雅楽頭忠清の裁定で一応決着したものの,名鰭沼【なびれぬま】から大橋に築いた大小262個の境塚が遠田郡側に不公平であったので,寛文11年伊達安芸は伊達兵部宗勝ら藩政担当者を幕府に訴え本格的な騒動になる(伊達騒動実録)。元禄8年大窪谷地をめぐって再び遠田・桃生間で相論。同10年,藩主伊達綱村の裁定で開発谷地はすべて遠田郡領となり,同13年新たに桃生郡の山麓に境塚を建て伊達騒動はここで終了する(元禄13年桃生遠田郡界図/矢本町矢本新平蔵)。しかし大窪村民の遠田郡への出作は明治年間まで続いている。村内の用水源は72の堤で溜高は1,280石余だったが,享保15年以降は遠田郡の鳴瀬川を水源とする臼ケ筒江を利用。三ツ谷潜穴【みつやすぐりあな】・鞍坪潜穴などを掘削した。安永5年の村高は132貫余,うち田代122貫余・畑10貫余,蔵入30貫余・給所101貫余(安永風土記)。文政11年の村高1,327石余,人頭69,男206・女179(赤子制導役手控書/河南町菅原清隆蔵)。天保5年の村高は1,268石余と減少(天保郷帳)。安永年間の人頭は86,家数88(うち水呑2),男249・女210,馬108。寺に澗洞院,修験に胎蔵院があった。神社25,小名岩入山の新山【しんざん】権現社は深谷一郡の鎮守といわれ胎蔵院が別当。桃生郡深谷小野本郷の足軽4人が警固に当たった。9月17・18日の祭礼には神輿が当村から塩入・小松・矢本・牛網・浜市・小野本郷・根古【ねこ】の各村を渡っている(安永風土記)。根古村から当村の表沢・宿【しゆく】を経て塩入村へ抜ける道は,のちに気仙道・東浜街道といわれる街道で(歴史の道/現状報告集),江戸期には登米伊達氏の往還道でもあった。伊達氏の定宿は天明4年までは小名清水沢の芳賀宅,以後は小名中沢の矢本宅であった。矢本宅に現存する重層門は同5年伊達式部宗倫の命で建築したと伝えている(矢本町史)。元文頃小名三ツ谷・前三郷・後三郷の村民によって裏沢六親講が組織されており,中沢・宿・表でも弘化2年頃に六親講があり,ともに明治年間まで存続。また安政5年から明治4年まで川村塾という寺子屋があり,男55・女15に読書・習字を教授。明治元年高崎藩預り地,以後,桃生県・石巻県・登米【とめ】県・仙台県を経て,同5年宮城県に所属。同3年の村高は1,325石余(陸前国牡鹿郡桃生郡本吉郡郷村高帳控/石巻市図書館蔵)。同5年の人頭127で122戸が専業農家,男623・女574(矢本町史)。同6年大窪小学校が塩入村の清泰寺を仮校舎として開校。教師2,生徒男110・女7。同19年校舎を字中沢の現在地に新築した。この頃の氏神は新山神社。同9年地租改正で134町余に地租256円の賦課。同22年桃生郡深谷村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7255592