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片平丁(近世)


 江戸期~昭和45年の町名。偏方町とも書き,広丁・大広町・大名小路ともいわれた(封内風土記)。江戸期は仙台城下町の1つ。明治11年宮城県仙台区に所属。同22年からは仙台市の町名。広瀬川の中町段丘の縁に沿って長く連なる町で,町名は断崖沿いであったために町並みが片側にしかできなかったことによる。現在の北一番丁南側の支倉【はせくら】町・桜ケ岡公園・大手町から片平丁に達する地域を指した。城下でも最初につくりだされた地区。「片平丁昔は北かしらより南末まで明通なり。延宝六七年の頃大町通指当より御評定おり口(藤ケ崎の所であろう。現大神宮向かい側)の間塞りて屋敷となる」,「御評定所かけあがり(藤ケ崎の地)片平丁西の並松并に杉を掘り捨て,元禄四年三月極る」,「鹿の子清水かけ上りより御牢前の並杉,元禄七年八月切らる」,「北目町通より御鍛冶屋前片平小路横丁へ新馬場元禄七年八月出る」(仙台鹿の子)などの記事から,元禄7年頃までにかけて町並みができあがったものと考えられる。寛文年間以降の絵図には屋敷割が示され,涌谷【わくや】伊達・亘理【わたり】伊達・水沢伊達・岩出山伊達・登米【とめ】(寺池)伊達・田村(岩沼)・石川(角田【かくだ】)・岩城(岩谷堂)などの「一門」と呼ばれる最上級の門閥家を中心とし,一家・一族・宿老などの重臣家の屋敷が置かれていた。とくに一門の家々は岩城氏以外すべて1~2万石以上の石高を有する大身であり,大名小路の名はここからつけられた。また,伊達弾正(岩出山伊達氏)屋敷北側から東側へ延び,伊勢屋丁に通じる横町を弾正横丁と称した。明治元年伹木土佐の屋敷跡に,昌平校出身の岡千仭により麟経堂を開校,同6年学制により五番小学校(現在の片平小学校)となり,生徒数は780人を数えたという。同8年3月伊達安房・古内左近之助・大内縫殿の屋敷跡に,伊勢堂山から神明社を移して桜ケ岡大神宮とし,ここに桜ケ岡公園(西公園)を造成。同年8月小学校に隣接する天童右近之助屋敷跡に福島より上等裁判所が移転。同裁判所は同14年控訴裁判所,同19年控訴院と変わり,第2次大戦後の高等裁判所となる。また岩城氏の屋敷跡には,米ケ袋【こめがふくろ】北端にあった江戸期の牢に付属していた県監獄署が移し置かれ,同15年8月には独立して監獄本署となった。同19年には桜ケ岡公園の北隣の柴田外記の屋敷跡が,陸軍将校のクラブである偕行社となり,同22年8月には監獄署の南側に,第二高等中学校(同27年第二高等学校と改称)が設けられた。この地は江戸期には岩出山伊達氏・石川氏・後藤氏(不動堂)など諸氏の屋敷地であったが,その後明治初年からは陸軍省用地となっていた。同40年6月には東北帝国大学の創立が決まり,同44年1月に東北帝国大学理科大学が開設。同学はその後大正11年の法文学部開設まで,この地区を中心に校地や施設を拡大し,監獄署や第二高等学校の跡地をその敷地内に包み込んでいった。伊達数馬屋敷跡に,明治4年神宮教奥羽教会所が開設。また同12年には,それまで国分町にあった約20軒の妓楼が,片平丁支倉寄りの地に移転し,常盤丁が起立,新しい歓楽街が出現した。大町以北は,片平丁大町頭と呼ばれるようになり,片平丁は南方の段丘崖沿いの地区を指すようになった。昭和45年現行の片平1~2丁目・米ケ袋1~2丁目となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7255883