三ケ内村(近世)

江戸期~明治22年の村名。黒川郡のうち。「安永風土記」によると,田畑合計59貫余,うち14貫余が蔵入地で,残り45貫余が摺沢・大和田・伊藤・石原など諸士の給所。人頭19・家数26・男女都合166・馬45。丘陵地形のため堤があり,長松沢堤・名子沢堤は村内と報恩寺村の入会用水,北沢堤は当村と粕川村(現大郷【おおさと】町)の入会用水。神社は村鎮守の八幡宮と神明宮の2社のみで,ほかに寺院・仏閣の類はなかった。天保5年の仙台領郡村高で見ると,拝領高が147石余に対して,新田高が386石余となっており,田川沿いの氾濫原の新田開発が盛んだった。「天保郷帳」の村高599石余。明治元年新仙台藩,同4年仙台県を経て,同5年宮城県に所属。同22年黒川郡落合村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7256448 |