白石(中世)

室町期~戦国期に見える郷村名。刈田【かつた】郡のうち。当地域の豪族白石氏の祖刈田氏は平安末期以来の領主であった(伊達世臣家譜・登米伊達十五代史)という伝承があるが,根拠は定かでない。「天文段銭古帳」に「十九貫仁百五十文 白いし」と見えるのが初見。天文のはじめ頃から白石実綱(宗綱)がこの地の領主で,伊達家天文の乱の時は晴宗に味方して活躍した。「留守文書」「伊達正統世次考」には天文11年11月11日付の高森殿留守景宗宛白石実綱書状が収められているが,「伊達正統世次考」は「白石氏世々刈田郡白石邑に住す。よって氏とす」としている。この乱の後半,白石城は晴宗の根拠地となる。同書天文15年6月15日条には晴宗「西山城を出て刈田郡白石城に入る,白石は大和実綱の邑也」とある。白石城が伊達氏の中で重きをなすに至ったのは,そのまま白石氏が伊達氏の中で重きをなすに至ったことを物語る。また白石邑のうちには大町孫五郎の所領もあった。「晴宗公采地下賜録」大町孫五郎宛分には「刈田白いしの内,はたけ中在け一けん,えぶくろの内きり田……をのをの下しをき候」とある。白石実綱の子宗実は天正14年7月下旬安達郡塩松に転封され宮森(小浜)に移り(伊達治家記録),代わって屋代景頼らが城代として城を預かった。天正19年刈田郡は蒲生氏郷領となり蒲生郷成が白石城主になった。郡の総高は3万8,646石余である(内閣文庫蔵高目録帳)。当時白石の地名が改められたとみえ,高目録帳に「増岡,二千三百九十石一升 源左(郷成)」と書かれている。郷成は文禄4年2月まで白石に在城し,城の修築,城下町の形成に当たったと思われる。蒲生氏は領内の城下町の名を改めることを行ったが,白石もその1つであった。蒲生氏郷が死んだあと,郷成も白石を去り,白石は蔵入地になったらしく白石城は破却されたという(福島県史2)。慶長3年上杉景勝が刈田郡を領し,郡の石高は蒲生氏と同じであった。上杉氏は甘粕備後清長を知行主として白石城に置いた。この時,上杉氏が再び白石城の修築をしたという(嚢塵埃捨録)。慶長5年7月,関ケ原役の直前に伊達政宗は家康に味方し上杉方の白石城を攻めこれを陥れた。この時,甘粕清長は米沢にあり,甥の登坂式部勝乃が城を守っていたが,伊達軍の猛攻にあい2日間で降伏した。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7256615 |




