仙台城下(近世)

慶長5年~明治4年の城下町名。関ケ原の役後,伊達政宗は,天正19年以来の居城岩出山城から,その奥州伊達領60万石(のち常陸・近江各1万石が加わって62万石)の治府を国分氏旧城千代城に移転することにし,慶長5年12月24日,縄張始め,翌6年正月11日,政事始めとして新城普請に着手,4月14日には,名取郡北目城にあった政宗は仙台城に入った。千代城は仙台城と改称,城下の広瀬川に架かる大橋も仙台橋と呼ばれ,ここに仙台城下町は仙台の名で呼ばれることになる。築城開始と同時に城下の町割りも決定された。「真山記」慶長6年正月11日条には「御城の御普請初め 惣奉行後藤孫兵衛・川島豊前・金森内膳・原治右衛門・真柳十介」と新城築城の開始を告げるとともに,「北目に於て画図を仰付けらる。仙台中屋敷割,川島豊前・金森内膳」ともあり,新城普請奉行のうち,川島豊前・金森内膳の両名が城下町割奉行担当となって,城下町の割り出しに当たった。城下町に定まった地は,宮城郡荒巻村・小田原村・南目村・小泉村それに名取郡根岸村の5か村入会の宮城野西寄りの丘陵台地の裾に当たる。町割の基準線は,仙台城大手門より大橋(仙台橋)を渡り東北東を見通す大町線と定められた。その大町基準線に芭蕉の辻において直交する第2の基準線として国分町・南町線が割り付けられ,奥州街道はこの国分町・南町線に導かれて町内を南北に縦貫し,城からは離れた所に国内交通・往還の動脈を通じて経済都市仙台と軍事都市仙台とは一線を画しながら緊密に結ばれる町構成となった。仙台城は,青葉山の一角,広瀬川が自然に城の外濠のように東南を画する位置にあり,城下の町割りの第一は,この軍事上の要害を「人のとりで」として守り固めるところに眼目を置く。広瀬川から西の川内地区へは他国者の立ち入りを禁止,川内・片平丁・中島丁など城下城寄りの地は大身屋敷を配した。中心街衢には大町・南町・国分町・二日町・立町などのように町人町が置かれ,これを押し包むようにして東番丁(一番丁~十番丁)・北番丁(一番丁~十番丁)のような中身侍屋敷が置かれ,周辺に小身侍屋敷・足軽屋敷や寺町が配され,主要な神社は城下の隅を固める位置を占めた。町人まちは町,侍屋敷まちは丁と呼ばれて,性格も構成もまったく異なっていた。近世,堅固に繁昌を兼ねた東奥第一の大都となり,金沢・名古屋などと並んで,三都に次ぐ地方城下町となった。「封内風土記」府城の条には「市廛【してん】(町)凡そ二十五」として,以下のように数えている。大町・肴町・南町・立町・柳町・荒町・国分町・旧【もと】材木町・北材木町・北目町・二日町・両染師町(南北)・田町・新伝馬町・穀町・南材木町・河原町・南鍛冶町・北鍛冶町・宮町・亀岡町・大崎八幡町・支倉澱橋【はせくらよどみばし】町。これに街衢およそ100ほど加わり,仙台城下町を形成していた。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7256682 |