大久保村(中世)

戦国期に見える村名。出羽国秋田郡のうち。初見史料は天正19年正月吉日「秋田郡御蔵入目録写」(秋田家文書)に「大くほ村」140石余とある。太閤検地の直前は秋田実季領であり,このとき太閤蔵入地に指定され,実季が管轄を委ねられた。実季から豊臣方に報告した慶長2~6年の当村物成率は10~21%と比較的高い。「文禄元年秋田家分限帳写」には当村名は見えない。ただし「慶長4年栗山二蔵肴算用帳」には,4月12日から5月28日の間に「かたひがし大久保村ヨリ」フナ1,100匹を門間兵左衛門吉正が納入と記載。あるいは門間吉正の管轄下にあったかと推定される。当村が潟漁の中心地であったことも判明する。「慶長6年秋田家分限帳」では,秋田氏一門とみられる不染斎の代官所給地の1村として,「湖東通,大窪村」381石余と記載。同年の秋田家から豊臣方に報告した「蔵入地物成算用帳」では,相変わらず当村高140石余と書き上げているので,秋田家で新たに把握した村高との間に240石余の開きが出ている。この差が,検地打直しの結果によるか,村落再編により大久保村を当地の1拠点として整備し,近隣田畑を合算した結果によるかは未詳。当村は古くから湖東部を縦断する幹線路(羽州街道)と小鹿島【おがしま】へ通ずる幹線路(船越【ふなこし】街道)の分岐点をなす要衝地に位置する。街道の傍ら馬踏川のあたりの古川小路に応永20年銘の板碑があり,一時水中に没したが漁中に網で引き揚げ大日如来としてまつってきたという(のきのやまぶき)。この東方1町ほどに天台宗円福寺廃寺跡があり,文禄2年跡地脇に臨済宗禄寿山円福寺を再興,小鹿島脇本城から阿弥陀仏を移して本尊とし,廃寺跡から掘り出した諸仏も堂内に安置したと伝えられる(同前)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7258443 |




